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連載

井出 昭一

第 1回 04.05.01 第50号 
「ボランティアによる応挙館での茶会」
第 2回 04.05.15 第51号 
「東博の外で舞う蝶・中で舞う蝶(1)」
第 3回 04.06.01 第52号 
「東博の外で舞う蝶・中で舞う蝶(2)」
第 4回 04.06.15 第53号 
「東博ボランティアによるガイド…陶磁エリアガイドを中心に…」
第 5回 04.07.01 第54号 
「知られていない法隆寺宝物館…そのすばらしい建物と宝物とデジタル・アーカイブ…」
第 6回 04.07.15 第55号 
「魅力あふれる“東博”の建物(1)…明治以降の近代建築…」
第 7回 04.08.01 第56号 
「夏日休話 2題…こだわりのビール・こだわらないお茶…」
第 8回 04.08.15 第57号 
「魅力あふれる“東博”の建物(2)…庭園内の5棟の茶室…」
第 9回 04.09.01 第58号 
「四季を通じて楽しめる“東博”の草木(1)」

第10回 04.09.15 第59号 
「四季を通じて楽しめる“東博”の草木(2)」
第11回 04.10.01 第60号 
「生まれ変わった“東博”本館」
第12回 04.10.15 第61号 
「東博ボランティアに三楽あり」
第13回 04.11.01 第62号 
「“柳緑花紅”を書き終えて」

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■第1回:ボランティアによる応挙館での茶会

 【メルマガIDN 第50号 2004年5月1日発行】

東京国立博物館のボランティアによる応挙館での茶会が1年経過して漸く定着してきたようだ。茶会といっても、正式な茶会ではない。東京国立博物館(略称:トーハク…東博…)のボランティアで茶道に関心あるもの10数名がグループを作って、庭園内の茶室で来館者にお茶を点てて差し上げるものである。

  東博の本館北側の庭園内には5棟の茶室がある。その中で最も大きな建物でしかも話題の豊富な応挙館がその会場である。円山応挙の絵があることから「応挙館」と名づけられているが、明治以降の最大の茶人といわれた益田鈍翁所有していた建物である。ここは、佐竹本三十六歌仙絵巻が切断されその抽選が行なわれたところであり、装飾経で有名な平家納経の模本作成のための資金集めの会場、さらには大寄せ茶会のさきがけである「大師会」の発端となったところでもある。
(写真は東京国立博物館庭園内の応挙館)

  このように、会場の茶室は歴史的にも由緒あるところであるが、茶会で使う茶道具は残念ながら東博の収蔵品は使えない。東博には松永耳庵が寄贈した茶道具の名品が数多くあるが、これらは収蔵品として登録されていて、ボランティアは手を触れることもできないからである。われわれが応挙館で使う茶道具は、館(東京国立博物館)が新たに購入していただいた稽古用道具で、東博での扱いは「美術品」ではなく「備品」である。東博の茶道具の名品は展示室で見学するほかはない。

  東博で展示品を見てきた方には、応挙の絵を眺めながらゆっくりと休息をしていただき、展示品をまだ見ていない方にはこれから見るためのヒント、見どころ、お奨めの展示室・作品などを案内することにしている。お客様から「本日の流儀は?」と訊かれれば、「東博耳庵流です」と答えている。なぜかといえば、東博庭園内の茶室を使い、松永耳庵のやり方を真似して、流儀、作法に捉われないやり方でお茶を差し上げているからである。茶会グループのメンバーが心がけていることは、季節の香りの豊なお菓子を添えて、心のこもった美味しいお茶を肩苦しくなく、決して形にとらわれず、気楽な気持ちで、静かな雰囲気の中で味わっていただくことである。

   一般の茶会での話題は茶道具が中心であるが、応挙館では、学芸員(研究員)の専門的な解説ではなく、ボランティアの立場での気楽な「茶室トーク」である。すなわち、東博の展示品・収蔵品の話題、東博と関係深い明治以降の数寄者4人のリーダーに関することなどを取り上げている。  
  例えば、井上世外と博物館の創立者町田久成の碑、益田鈍翁と応挙館、原三溪と春草廬、日本画のコレクションとその行方、松永耳庵と春草廬、茶道具の関係など……。さらには、これら数寄者間の交流も興味深く面白い。東博の国宝「孔雀明王図」についての世外と三溪とのやり取り、大井戸茶碗「有楽」に関しての鈍翁と耳庵の競り合いなど話題には事欠かない。

   一昨年秋に、ボランティアだけの試行茶会を開いて以来、館長以下東博職員を来客としてのリハーサル茶会を経て、ようやく一般の来館者対象の茶会を開催するに至ったが、これまでに来館者を対象として開催した茶会の回数は8回、参加者は延べで約800人となった。普段はなかなか入れない庭園内で、しかも応挙の絵に囲まれての茶会は珍しく、参加者の感想は概ね良好のようだ。
   昨年11月1日の「留学生の日」に館側の要請で開催した茶会では、日本文化の集約された姿としての茶会は留学生にとって大変な人気で、整理券を配布すると同時に各席満席になるほどだった。

  現在は、原則として毎月1回、1席約20名で3席ということで開催している。「次回の開催はいつですか?」とか「今まで庭園にも入れなかったのに、庭園内の茶室でお茶を飲めるなんて、まるで宝くじに当たったみたいです」、「次回は他の茶室でも何とか開催していただけませんか」という声もあり好評のようである。
  これからは、開催日数および1日の席数をもっと増加して要望に応えたいところだが、ボランティアの人数不足、制約条件かでの来客の誘導、道具の問題など、解決すべき課題も多く簡単には行かない。参加希望者が殺到した場合は対応しかねるため、残念ながら現在でも積極的な広報はしていない。
日本を訪れた外国人に、東博の展示室で日本の美術品をガラス越しに見学するばかりではなく、日本独特の文化である茶会の雰囲気を実際に体験し、より深く日本を理解していただくのも今後の課題である。
                                                                                 

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■第2回:東博の庭で舞う蝶・中で舞う蝶(1)
―憧れのアオスジアゲハとの出会い―
  【メルマガIDN 第51号 2004年5月15日発行】

昨年の5月中旬、それまで荒れ狂ったような天気が一転して穏やかな晩春の一日のことです。思いがけない光景に遭遇することができました。東博(東京国立博物館)の法隆寺宝物館の池の手前にあるベニシタンの植え込みにアオスジアゲハが群れを成して飛び交っているではありませんか。50年前の私だったら、これは夢のような心地だったでしょう。

   「蝶少年」だった私の信州・佐久での中学3年間は、蝶に惹かれ蝶に没頭した3年間でした。その当時、佐久地方で私が採集できたアゲハチョウ科の蝶は、アゲハチョウ、キアゲハ、カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、クロアゲハ、オナガアゲハ、ジャコウアゲハ、ウスバシロチョウ、ヒメウスバシロチョウでした。天然記念物に指定されていたミカドアゲハ(高知県)、ウスバキチョウ(北海道)、ギフチョウ、ヒメギフチョウは望めない蝶で、モンキアゲハ、ナガサキアゲハなどの南方系のアゲハもとても採集できない蝶でした。関東に棲息していても信州にいない蝶はこのアオスジアゲハだけだったのです。

   "帝王"の名前をもつミカドアゲハとそっくりの羽の形で、鮮明な青空のような澄み切った色の帯のあるアオスジアゲハは、私にとってまさに高値の「蝶」、手の届かない蝶、憧れの的でもありました。
 ところが、ある日、びっくりするような事が起りました。私の蝶仲間のひとりが、なんとアオスジアゲハを採って私に見せてくれたのです。羽は多少痛んで鱗粉が薄らいではいるものの紛れもなくアオスジアゲハでした。
多分、台風の強い風に乗せられて関東から信州に吹き飛ばされて迷い込んできたひとつだったのでしょう。
それからというもの、ライバルの蝶友達がアオスジアゲハを採ったという場所に毎日通い詰めたのですが、ついに採ることはできませんでした。というよりは、3年間アオスジアゲハが舞っている姿すら出会うことはなかったのです。ですから、私にとって、アオスジアゲハはまさに幻の蝶だったのです。

 蝶少年から脱皮して、還暦を過ぎたとはいうものの、群舞しているアオスジアゲハに出会うことができて、これが50年前だったら、どれほど興奮しただろうか。東京国立博物館とは、美術品以外でも懐かしい思い出を甦らせてくれるところでもあったのです。

―オオムラサキの羽化―
  アオスジアゲハに出会ってから1ヵ月後、ボランティア仲間のひとりから、軽い箱の入っている紙袋をいただきました。なんと、中身はオオムラサキの「さなぎ」2体でした。オオムラサキは、日本の国蝶で切手(40円)にもなっているタテハチョウ科の最大の蝶で、羽根を拡げると7〜10センチほどになります。その羽根の青紫色は、写真とか印刷ではとても表現できない、鮮やかで奥深い色なのです。

 かつて、わが国では朝臣の公服の階級色を「衣服令」で定め、その最高位は「深紫(こきむらさき)」でした。平安時代には単に「こき」と呼ばれ、色の中の色として別格視され、高貴の人でなければ使用できない禁色だったとのことです。参考までに、英語名は、Deep Royal Purple(帝王紫)。こうしたことから、日本では、オオムラサキが「蝶の帝王」として、国を代表する「国蝶」として選ばれたのでしょうか。

 このオオムラサキも、実はアオスジアゲハと同様に「蝶少年」にとっては、憧れの蝶だったのです。オオムラサキは高いクヌギの梢に止まっているので、幹をゆすったり、砂を投げかけると、驚いて舞い上がり高いところを旋回するのですが、少年の捕虫網の届くところには決して降りてこないのです。そのためオオムラサキは文字通り「高嶺の蝶」で「手の届かない蝶」でした。

 さなぎを持ち帰った翌朝は、いつもより早く目覚めてしまいました。「2〜3日で羽化しますよ」といわれてはいたものの、もしかしたらと思ったからです。その予想がみごと的中しました。一つが羽化していたのです。夢にまで見たオオムラサキです。羽化した直後だったのでしょうか、最初は羽根を閉じてジッとしていました。しばらく見つめているとわが家のオオムラサキはゆっくりと羽根を拡げました。紛れもなくあの青紫に輝く高貴な蝶の完全無垢の姿が目の前にあったのです。
                                 
  人の手で作った最高の色が曜変天目茶碗の色だとすると、オオムラサキのこの羽根の色は自然のなした最高の色といえるでしょう。ゼフィルス(ミドリシジミの一群)の羽根の色もすばらしいものですが、オオムラサキの羽根の色も最高の色彩だと思っています。

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■第3回:東博の庭で舞う蝶・中で舞う蝶(2)
―東博の中で舞う蝶―
  【メルマガIDN 第52号 2004年6月1日発行】

アオスジアゲハ(写真参照)と東京国立博物館は無関係なことと思い込んでいたのですが、なんと、大いに関係あることがわかりました。アオスジアゲハ→アゲハチョウ科の蝶→アゲハチョウ(別名:ナミアゲハとも呼ばれます)→円山応挙「蝶写生帖」に描写→東京国立博物館所蔵品というようになるわけです。
                   
 円山派の祖である円山応挙は、画期的な写実主義を基礎として日本絵画史のうえで独自の画風を創造したといわれ高く評価されています。応挙は、動植物の写生を最も得意とし、「蝶写生帖」や「昆虫写生帖」を残し、この「蝶写生帖」には、27種の蝶が描かれていて、そのうちのナミアゲハ(アゲハチョウ)は、夏型の雄を表面と裏面を極めて忠実に描写しているとのことです。蝶はその種類により、春型、夏型というように季節型があって、両者の違いは様々ですが、アゲハチョウの場合、春型は全体に形が小さく、華奢でなんとなく弱々しい感じですが、夏型の方は、春型より一回り大きく、がっちりしています。また、雌雄の区別は蝶の種類により明白なものと、一見したのでは判別が困難なものがあります。

 私でも直に雌雄の区別ができるものは、シジミチョウ科のゼフィルス(ギリシャ語で"そよ風"という意味。すばらしい命名で、私の最も好きな一群の蝶です。)とよばれるミドリシジミのグループです。雄の羽根は、金と青を混ぜた色、金緑色とでもいうのでしょうか、あるいは銀と緑を混ぜた色、輝くような青緑で適切なことばが見当たらないような華やかな色です。これに対して雌は、黒とか茶系統の暗く落ち着いた色ですから判別が容易です。
 アゲハチョウは、春型、夏型の判別は容易につくものの、私には雌雄の判別がつきません。応挙その判別がわかるほど忠実に描いたとされていますので、東京国立博物館所蔵の「蝶写生帖」を何とか早く拝見したいものです。ということで、アオスジアゲハと東京国立博物館がつながってしまったのです。

 また、文様としての蝶という観点から、陶磁、漆工、染織等を調べてみますと東京国立博物館にはいろいろなものがあります。一見、関係ないと思われるものが関連付けられつながってしまうところ=東博とは本当に不思議なところです。そこになんともいえない魅力があります。東博の庭には様々な蝶が飛び交うのですが、雨では蝶も舞ってきません。ある大雨に一日、東博館内にどの位の蝶が舞っているのか調べてみました。

 昨年8月15日、東博全館(全展示室)で、蝶の文様の展示品は18件ありました。日本では蝶の文様が古くから愛好されていたようで、中国の陶磁に龍、蝙蝠、魚が多く登場するのと比較して、やはり"日本的な"感じです。その内訳は、本館17件、東洋館1件で、平成館、法隆寺宝物館はゼロでした。やはり本館は蝶の"宝庫"です。本館の17件をさらに見ますと、1階が7件、2階が10件です。

 館内で舞っている蝶(描かれている蝶)の数を集計しようと数え始めてみましたが、作品の裏側の見えない部分の数が分かりませんので諦めました。多分、30以上は間違いないのですが……。
 蝶はその自然の姿が最も美しいと思いますが、東博の蝶はその殆どが図案化されていて、残念ながら自然の姿と程遠い感じです。中には「蝶」として表示されていても、明らかに蛾と思われるものもあり、蝶少年にとっては本当にガッカリしています。

  私は、蝶は好きでも蛾は大嫌いなのです。近代日本画として速水御舟の「炎舞」(山種美術館蔵)は近代日本画として重要文化財にまで指定されている名作ですが、蛾が描かれゆえに好きになれない作品です。炎に群がる蛾の一群を御舟が克明に写実的に描いているからです。蝶の中には、限りなく蛾に近いものもありますが、蝶と蛾は全く違うものです。蝶をあまりにも図案化してしまうと、蝶なのか蛾なのか区別がつかなくなってしまいます。したがって蝶の種類をとても特定できません。「炎舞」の画も、図案化してしまえば好きになったかもしれません。東博内18件のうち自然のままその姿が表現されていて、はっきりと種類の判別できるのはただ1件のみでした。それは、鏑木清方筆の「黒髪」(4曲1双の屏風)に描かれたカラスアゲハです。

 外は雨天でも東博館内では蝶はたくさん舞っています。東博は常に展示品が変わります。現在ではまた別の蝶が飛び交っています。ご興味のある方は、探してみてください。意外なところに意外な蝶が潜んでいるかもしれません。

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■第4回:東博ボランティアによるガイド
 「陶磁室エリアガイド」を中心に
【メルマガIDN 第53号 2004年6月15日発行】

東京国立博物館(愛称:東博)の生涯学習ボランティアも発足以来2年を過ぎ、ボランティアの自主企画としての各種ガイドが盛んになってきている。
東博では、これまで「列品解説」(原則として毎週火曜日の午後)と称して、研究員による陳列品1点に焦点を絞って専門的な解説が行われてきた。これに対して、ボランティアによるガイドは、東博の初心者あるいは一般の来館者向けに易しく平易に紹介をするのを狙いとしている。ボランティアとして、お客様と展示品との仲立ちをして、展示品を理解していただくためのヒントを提供できればよいのではないかと思っている。 
現在、東博ボランティアによる展示室のガイドとしては、「浮世絵版画展示ガイド」、「陶磁室エリアガイド」、「考古展示室ガイド」、「法隆寺宝物館ガイド」などの分野別のものと、国宝室を中心に本館の主な作品を紹介する「本館ハイライトツァー」がある。
また、展示品以外のガイドとしては、庭園内の名木あるいは珍しい樹木を紹介する「樹木ツアー」、本館北側に点在する由緒ある茶室・史跡・樹木を案内する「庭園茶室ツアー」もある。このうち、私が参加しているのは、陶磁室エリアガイド、法隆寺宝物館ガイド、庭園茶室ツアーの3グループで、ガイドの方法は、グループによって異なっている。
  「陶磁室エリアガイド」の場合は、毎週土曜日に実施している。午後2時10分に本館1階のインフォメーション・カウンター前に集合し、当日のガイド担当者が、東博のあらましと展示室のテーマ「江戸と桃山の陶磁」について紹介したうえで、担当者が好みの特定の作品数点あるいは展示されている特定のケースを選んで30分程度説明をする。
  このガイドが他と異なる点は、当日のガイド担当者のほかに数名のサポーターが、解説終了後30分間ほど展示室内に待機していて、参加者からの個別の質問を受けたり、陶磁に関する対話をすることになっている点である。
  この方式は、初めての来館者にとっては、東博の歴史、展示館、収蔵品等の概要を知ることができ、さらに陶磁の展示室がどのような考えのもとに陳列されているかも理解できる。そして、疑問点や不明な点はサポーターに個人的にゆっくりと尋ねることができるので、こうした対話方式はお客様にとっても好評のようである。 
  これはまた、ボランティア側にとってもメリットがある。というのは、ボランティアは専門の研究員ではないので、すべての展示品の詳細についてまで熟知しているわけではない。もしガイドが思い違いあるいは無意識のうちに誤ったことを話したような場合はサポーターがチェックしていてその場で訂正する。また、お客様からの質問に答えられないような場合、「私はお答えできませんが、その点については、あちらのサポーターが詳しいので、ご紹介しますからどうぞ」というように、ガイド担当者、サポーターがお互いに補完できることである。 
 陶磁の好きなボランティアだといっても、いきなりガイドはできない。そこでまず基本となる勉強をしようということになり、東博の陶磁室長(当時)に講師をお願いし、「特別講義:日本陶磁通史」を受講することができた。
  次いで、教科書として推奨していただいた「日本やきもの史」(美術出版社)を、時代別、各章毎に担当者を決めて輪読・発表の自主勉強会を開いた。これは毎月2回の割合で5ヶ月続けた。輪読といっても単に教科書を読むのではなく、発表の担当者は、関係した参考図書、資料等に当たり、取りまとめ工夫した資料を配布したので、今ではかなり詳しい資料が蓄積することになった。
 陶磁について東博のすばらしい点は、日本と東洋(主として中国陶磁と朝鮮陶磁)あらゆる時代の代表的な作品が見学できることである。例えば、本館2階「日本美術の流れ」の第14室「茶に遊ぶ」では、茶道具、本館1階第20室の「近代の工芸」では、人間国宝クラスの名品が、平成館の考古展示室では発掘されたもの、東洋館では中国陶磁と朝鮮陶磁の優品を見ることが可能だ。といっても、本館、平成館、東洋館は離れているし、展示室も多いのでどこにどんな作品がわかりにくい。そこで役立つのが、今年の4月から大幅なリニューアルをして内容が格段に充実した東博のウェブ・ページである。(http://www.tnm.jp/ 
  トップページを開き、「今日の博物館」見れば、その日展示されている作品が展示館別、展示室別に見ることができる。さらに「催し物」をクリックし、「ボランティアによる解説・イベント」の見ると詳しいスケジュールも確認できる。
パソコンやインターネットが苦手の方は、本館と平成館のインフォメーション・カウンターにある「東京国立博物館ニュース」(隔月刊行・無料配布)をお奨めしたい。これは東博のいろいろな情報が盛り沢山でしかもカラフルだ。その最終ページには、2ヶ月間の東博の展示・イベントに関する予定がまとめられ、「ボランティアによる解説・イベント」も一覧できる。このように東博もボランティアによる各種のガイド・催しの広報に力を入れている。それだけに、ボランティアの責任も重くなってきている。 
今年の4月からボランティアのガイドで大きく変わった点の一つは、コアタイム制を導入したことである。すなわちボランティアの一般向けの催しを2時から4時までのコアタイムに集中させて、この時間帯に東博に来れば(火曜日を除いて)ボランティアの何らかの催しがあるということになった。
もう一点は、「予約ガイド」の実施である。学校、各種の団体に案内のチラシを配布して、事前に申し込みを受付ける。ボランティアの該当グループとの日時の調整がつけば、個別に対応してガイドをおこなおうとするものである。すでに、いくつかの学校から予約の申込みもあって、これからはボランティアのガイドもますます忙しくなりそうだ。 
 これまで、本館第1室は、日本の陶磁を3か月毎に展示替えをしてきた。好評の「江戸と桃山の陶磁」はこの6月末日で終了する。東博の陶磁の看板であった仁清の「色絵月梅図茶壷」、尾形光琳・深省合作「銹絵観鴎図角皿」(いずれも重要文化財)ともしばらくお別れである。というのは、本館はニューアル工事のため7月と8月の2ヶ月間閉館となるからである。9月からどんな形で陶磁が展示されるのか、期待と不安が交錯している。
最後に、東博には3つの魅力があるといわれている。第1は、10万件以上にのぼる収蔵品(うち国宝91件、重文616件)、第2は、本館、表慶館をはじめとする建物、第3は、建物を取り囲む広い庭園と多彩な樹木である。そこで、われわれボランティアは、東博の第4の魅力として、来館者から評価されるようなボランティア活動を展開してゆきたいものである。

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■第5回:
知られていない「法隆寺宝物館」
            そのすばらしい建物と宝物とデジタルアーカイブ
【メルマガIDN 第54号 2004年7月1日発行】

東博(東京国立博物館)の正門を入って左に折れ、まっすぐ進むと池の向うに法隆寺宝物館がある。ここに法隆寺の宝物がまとまって展示されていることは、一般にはあまり知られていないようだ。東博の来館者の多くは特別展が目当てで、平成館で特別展を見学すると疲れてしまうのか、本館・東洋館にも立ち寄らず帰ってしまう方がほとんどである。

 法隆寺宝物館の旧館は、昭和39年に開館し、毎週木曜日のみ一般公開されていたが、雨天の場合は閉館となっていた。なぜかというと、旧館は宝物の保存を主目的として造られ、それを展示室としても活用していたためである。現在は建て替えられて、旧館を偲ぶことができる唯一の名残は、浅野長武(元館長)揮毫の篆書体による館銘板のみだ。これは池の左手に生えるオリーブの大樹の前にひっそりと保存されていて気付く人は少ない。

現在の法隆寺宝物館は、平成11年に開館した。東博の構内で重要文化財に指定されている重厚な本館、華麗な表慶館の両建物とは全く対照的で、平成館と並んで東博のなかでは最も新しく近代的な“重装備”の建物でもある。

 

設計は東洋館を設計した谷口吉郎(よしろう)の子息谷口吉生(よしお)で、土門拳記念館(酒田市)、長野県信濃美術館東山魁夷館(長野市)と同様に、水と建物の調和を図っている。

この建物は、収蔵庫兼展示室が厚いコンクリートと石の壁で外光を完全に遮断されているのに対し、エントランスホールとレストランは、透明なガラスと直線的な金属に覆われていて明るい外側に配置されるという二重構造になっている。また、ここは室温24度、湿度55%、24時間空調と、東博内では一年中最も快適な環境を保っている。設計者は、この明るいスペースを「周辺の自然を眺めながら作品鑑賞の余韻に浸る場所」だという。確かにここのエントランスホールで椅子に腰掛けると、池越しに表慶館のドームとその周辺の四季折々の変化を楽しめる。このように、法隆寺の宝物の永久保存と公開展示という相反する要因を同時に解決し、さらに美術品と自然環境との調和を配慮したものとして、専門家の間で評価され、日本建築学会賞を受賞している。

「建物は絵画の額縁。絵画が主で、建物は自らを主張しない無機質なもの」であるとのコンセプトをもとに、建物のみならず展示方法、書架、椅子にいたるまで設計者の考えが反映されているという。

展示室では、光を反射させない透明性を極端に高めた展示ケースで、作品のみを光の中に浮き上がらせ、解説は控え目に表示し、鑑賞の妨げになるもの、装飾等を一切排除して「作品鑑賞主義」を貫いている。

免震対応の展示ケースとか光ファイバーによる照明についても、その裏に隠された仕組みの説明を聞かなければわからない。ハロゲン球の光を光ファイバーのケーブルで伝送し、その先端で制御するもので、熱と色あせを起こす紫外線を遮断するため展示物に害がなく、しかも光源を小さくできるので、小さな金銅仏のスポットライトとして効果的に使用しているとのことだ。

建物ばかりではなく、エントランスホールや中2階のロビーには近代的な椅子が置かれている。これらの椅子も設計者の指示によるデザイナーのもので、エントランスホールはマリオ・ベリーニ(イタリア)、受付はチャールズ・レイ・イームズ、中2階のロビーはル・コルビジェ(フランス)、資料室はチャールズ・レイ・イームズと言った具合である。驚いたことに、ベリーニの皮製の椅子は、置く位置まで指定されていて、勝手に動かすことはできない。

一見、シンプルで単純のような法隆寺宝物館は、知れば知るほど作品の保存と来館者の鑑賞に対して、きめ細かい配慮ががなされていて、極めて“重装備”のハイテク建造物なのである。宝物を単に「見る」だけでなく、「知る」、「楽しむ」、「くつろぐ」という多目的のための時間と空間を提供するのだという。

この建物もさることながら、そこに展示されている「法隆寺献納宝物」についても知られていない。東博のボランティアを始めて2年間に私の関係するグループ、親しい友人などに請われて何回も法隆寺宝物館を案内してきた。見学後の懇親会で感想をうかがってみると、「法隆寺の宝物が東京にあることを知らなかった」「奥まったところにあるので入ってよいのか判らなかった」「常時開館しているとは知らなかった」というひとがほとんどで、なかには「宝物はいつ法隆寺へ返すのですか」などと訊かれてびっくりさせられたこともある。

法隆寺献納宝物とは、明治11年(1878年)法隆寺から皇室に献上され、戦後になって国に移管された319件の文化財で、飛鳥時代7〜8世紀を中心に近世にいたるまでの各時代の名品が集められ、このうち国宝14件、重要文化財239件とまさに文字通り豪華な宝物である。

西の正倉院宝物に対して、東の法隆寺献納宝物といわれるように、両者は日本の古代美術宝庫の双璧である。正倉院宝物が、天平勝宝4年(752年)東大寺大仏開眼のときに用いられた品々を中心に聖武天皇の御遺愛品で奈良時代8世紀中頃の作品であるのに対し、法隆寺献納宝物はそれより一時代古い7世紀の法隆寺東院の絵殿・舎利殿に収蔵されていた聖徳太子関連の伝承品が中心で、貴重な歴史資料、同時に質の高いレベルの工芸品・芸術品、古代文化の東西交流の証しとなるものも多く含まれている。しかも、それらは発掘したものではなくすべて大切に守られてきた伝世品であることも他に例がない。

  

このような古代美術の粋を、東博の開館時には常時見学できることはすばらしいことであるが、さらに法隆寺宝物館の第3の魅力は、中2階の資料室にあるデータベース「東京国立博物館法隆寺献納宝物…デジタルアーカイブ」である。これは、法隆寺献納宝物全作品319件に関する画像と解説をコンピュータによって自由に検索し閲覧することができる。検索は部屋別、ジャンル別、時代別、番号別にでき、さらに希望する作品の細部をアップして拡大表示したり、画像を回転したり、展示では見ることができない底の様子、銘文の拡大表示なども可能である。

例えば、古代東西文明の交流の証しで、法隆寺献納宝物を代表する名品「竜首水瓶(りゅうしゅすいびょう)」の胴の部分に描かれているペガサス(天馬)も、暗い展示室内ではよほど凝視しなければ見落としてしまう。これをデジタルアーカイブで拡大してみると、流れるような線彫りの状況が驚くほど鮮明に見ることができる。また、法隆寺の染織のうち錦を代表するという「蜀江錦綾幡(しょっこうきんあやばん)」も、最大の拡大表示をしてみると、経糸(たていと)と緯糸(ぬきいと)の織り込まれる様子がはっきりと判別できるほどである。これを実際に操作して画面に映し出してみると、その鮮明さに一斉に驚嘆の声が聞かれる。

このデジタルアーカイブは日本語のみでなく、英・中・韓・仏の5ヶ国語でデータが収録されているので、外国人にも是非とも体験していただきたいすばらしいシステムである。

先日、ある高齢者のグループを案内したとき、参加者のひとりが「高齢者の無料パスで都営バスや都営地下鉄を使って東博に通い、法隆寺宝物館でデジタルアーカイブを使えば、お金を使わず終日、知的な遊びを楽しむことがでる。東博ってすばらしいところですね」といわれました。まさにそのとおりである。

  法隆寺宝物館を訪れたら、まず展示室を自分のペースでご覧ください。その後、中2階にある資料室で、デジタルアーカイブを心行くまで堪能してください。もし疲れたら真下の1階へどうぞ。そこには「ホテルオークラ・ガーデンテラス」があり、美味しいワインとフランス料理を楽しみながら、春はサクラ、秋には紅葉と一年を通じて季節の変化までも味わうことができるのです。

 

  これほど魅力ある法隆寺宝物館がどうして知られていないのか。本当に不思議です。もっとも、あまり知れ渡って、入館者が殺到しても困りますが……。来るたびに新鮮な感動に出会える、それが「東博」であり、知られていない「法隆寺宝物館」なのです。


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■第6回: 魅力あふれる“東博”の建物(1)…明治以降の近代建築
【メルマガIDN 第55号 2004年7月15日発行】

上野の森は、“生きた建築博物館“といわれる。それは、日本の近代建築を代表する“標本”がずらり勢揃いしているからである。明治以降の有名建築家による建物がこれほど集中して建てられているところは他に例を見ない。住居表示上の「台東区上野公園」の中には、大小さまざまの約30棟の“標本”がある。上野の山に来て、そこに点在する建物を丸1日丹念に歩けば、「日本近代建築史」をしっかり勉強できる。

その中心は、東京国立博物館。東博の最大の魅力は、その収蔵品の多いことであるが、構内の建物群も人の心を惹きつけてやまない。本館、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5棟の展示館に、資料館を加えて6棟が“明治以降の近代建築”である。(注:法隆寺宝物館については、前号で紹介済み)このうち、本館と表慶館は重要文化財指定の建物でもある。

本館……威厳に満ちた東博の象徴

上野公園に入ってきて噴水のある池の前に立つと池越しに東博本館の威風堂々とした格調高い姿を見ることができる。正門を入り、近づいてみると、さらに迫力に圧倒される。この本館は、渡辺 仁の設計による帝冠様式の代表的建築で、その外観といい、内部の造作・装飾といい、何度見ても見飽きることはない。

私は、毎朝毎晩、この迫力満点の本館の姿を自宅で堪能している。というのは、今年の正月、デジカメで写した本館の全貌をパソコン立ち上げ時の壁紙としているからである。 

本館の車寄せのある正面玄関の重厚な扉を入ると、そこには高い天井のホールが広がる。幅広い石張り階段を昇りながら見上げると大理石の壁面に装飾豊な大時計。階段の左右の踊り場を飾るステンドグラスも茶系統の色調のためか落ち着いた雰囲気である。

1階入口の上にある明り取り窓、正面階段の照明、階段両脇、2階便殿(旧貴賓室)の扉、2階ロビーの照明等細かい部分にまで装飾が行き届いていて目を休めるときがない。1階の北側にある休憩室もその良さに気づかないで通り過ぎてしまう人も多いが、壁面いっぱいのモザイク、時計の周囲の装飾、北側庭園を望む窓枠の飾りなど展示室以外でも見どころは盛り沢山ある。このように日本美術の名品を展示する本館は、建物そのものが見ごたえのある美術品なのだ。

ただ、本館はリニューアル工事のため現在(7〜8月)は閉館中で、9月に新たな装いでオープンする。どのような形で現れるのか待ち遠しい。

表慶館……優美な明治建築

本館の西側にあって半球形の屋根をいただくのは表慶館。赤坂の迎賓館、京都と奈良の両国立博物館と並んで片山 東熊の代表作。日本人が設計した西洋建築で現存する明治時代の建築としては傑出した建物だといわれている。

ネオバロック様式の堂々たる外観は四季を通じ、しかも四方いずれからも楽しめる。私の最も好きな建物で、わがデジカメに春夏秋冬四季折々の姿を納めている1階の中央ホールに立つと、その床はタイルではなくフランス産の7色の大理石によるモザイク、仰ぎ見るとドームの天井の装飾、2階に林立する大理石の丸い柱、1階から2階へ通じる螺旋階段など、その内部装飾は優雅な曲線を基調としていて、東洋館、法隆寺宝物館の直線的なものとは対象的である。

空調、衛生、バリアフリー等の設備の問題で、残念ながら常時開館しているわけではないが、特別展等で開館しているときは、展示品ばかり目を奪われないで、建物内部の詳細も気をつけていただければ、そのすばらしさを実感できる。

東洋館……東洋美術最大の宝庫

表慶館と相対しているのは東洋館で、日本を除く東洋の美術・工芸・考古遺物を常時展示している。谷口 吉郎の設計、昭和43年開館した。以前から気になっていた「東洋館」という大きな館名の看板が最近になってようやく撤去されすっきりした形になった。外観・内部とも直線を基調としてすがすがしい。構造上は3階で展示室は10室で構成されている。しかし半階ずつ階段を経由して展示室を巡るような造りのため、階段が複雑に入り組んでいて目指す展示室にたどり着くのはむずかしい。法隆寺宝物館と並んで東洋館は、人の混み合うことのないスポットで、いつでも静寂な雰囲気の中で美術品に没頭できる場所でもある。酷暑の夏でも、空調の効いた東洋館の中国陶磁の展示室で、青磁や染付の名品と対面していれば心の底まで涼しく清められる。それ故、私の最も好きな休憩室でもある。

 

平成館……巨大な展示空間皇太子殿下のご成婚を記念して平成11年に開館した平成館は、2階に特別展専用の展示室がある。平成館の建物としての魅力は、新しいということだけではなく、高い天井高を有する大空間にある。その威力を遺憾なく発揮したのは、「大日蓮展」の時の長谷川等伯の重文「仏涅槃図」(京都・本法寺蔵)が展示されたときである。縦8m弱、横5m強の“大”涅槃図を垂直に掛けて、しかも離れたところから鑑賞できるのはこの平成館以外には考えられない。特別展の開催時の平成館は、最も来館者でにぎわう場所でもある。ここ数年で特に人気のあった「横山大観展」「雪舟展」「空海と高野山」などの会期末には、来館者が殺到した。展示ケースを覗くような場所では、人の波に押し出されてゆっくり鑑賞などできない。したがって、特別展を見るだけでエネルギーを出し切って、平成館の1階にある考古展示室とか寄贈品展示室に立ち寄る元気はなくなってしまうらしい。「特別展は疲れる」という人が多い。しかし、なかには、特別展を見終わった後、1階ラウンジのソファーで休憩を取り、自販機の飲料で喉を潤し気分を新たにして、本館の日本美術に再挑戦するという高齢の来館者もいる。いずれにせよ、東京国立博物館は建物が大きくて広く、見る物が多くて、大変なところだが、それだけに底知れない深遠な魅力を秘めた場所でもある。

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■第7回: 夏日休話 2題…こだわりのビール・こだわらないお茶…
【メルマガIDN 第56号 2004年8月1日発行】

猛暑が続きます。突然ですが今回は“東博シリーズ”を離れ、暑さを忘れるため、涼しい話題?を二つお届けします。
 

[その1]こだわりのビール……おいしいビールの飲み方…… 

 夏になると、生まれ育った信州が懐かしくなりますが、夏はまたビールのおいしい季節でもあります。ビールは爽やかな信州で飲むより、蒸し暑い東京で飲むほうがおいしいような気がします。 汗が噴き出るような真夏の日、家に帰るや、まず冷蔵庫に入れてあるビールを冷凍庫に移します。ビールは瓶よりも缶の方が早く冷えるようです。同時に、ビールを飲むグラスも冷凍庫に入れることを忘れません。グラスは大振りの薄手のワイングラスがよいでしょう。

 そこでシャワーを浴び。頭から冷たい水を被り、汗を洗い流します。糊のきいた浴衣が最高ですが、着易いスポーツシャツでもOKです。早速、ビールといきたいところですが、もうひとつすることがあります。忘れてならないことは歯を磨き、口を漱ぐことです。歯磨きペーストをつけると香りが残るので、歯ブラシだけで歯を磨くのです。歯を磨いたら、真水で口を漱ぎます。さらに、歯ブラシで丁寧に舌を磨きます。舌は結構汚れているので、この舌を磨くことが大切なポイントなのです。次に、口を漱いでうがいをします。喉は渇いていても、決してここで水は飲まないことです。これで心身ともに爽快な気分になります。

 そこで初めて冷凍庫から、多少冷え過ぎのビールとグラスを取り出します。冷えたグラスは一瞬にして曇り、傾けたグラスにゆっくりビールを注ぎます。冷えた薄手のワイングラスの口当たりも程よく、乾いた喉にビールを流し込むとき、暑さを忘れるひととき、これこそ至福のときでもあります。「無言」何も言うことはありません。

 

[その2]こだわらないお茶(抹茶)……気楽なお茶の飲み方…… 

 一転して熱い話題です。抹茶を飲むというと、どうしても茶室でかしこまって飲むことを想定し、敬遠されてしまいます。しかし、抹茶も家庭で気楽に飲むことができるのです。

道具は、茶碗と茶筌のみ。茶杓はあれば良いですが無くても大丈夫です。用意する材料は、抹茶と菓子。ポットにお湯を蓄えて、いつでもお湯が使える状況にしておきます。ポットで沸かす水は、必ず浄水器を通した水を使うと良いでしょう。手順としては、まず茶碗にポットのお湯を入れます。柄杓を使わずにポットで充分です。これは、茶碗を温めることと茶筌の湯通しをして穂先を柔らかくするためでもあります。

 

次に、冷凍庫(冷蔵庫ではない)に保存しておいた抹茶を適量入れます。抹茶は、買ったらすぐに「ふるい」でこして保存するほうがよいでしょう。手間を省こうとして、抹茶を缶から直接茶碗に入れようとすると、お茶がどっさり入ったりして、お茶の分量の調節が難しいのです。やはり竹の茶杓を使うのがベストです。茶杓がなければスプーンでも良いのですが、金属のスプーンではどうしてもお茶がスプーンに付着してしまいます。適量の抹茶を入れたらお茶を点てます。机の上は滑りやすいので台拭きを敷いて点てると茶碗が滑らずお茶が点て易いでしょう。茶筌を振って泡が細かく均一になったところで茶碗の中心から茶筌を真っ直ぐうえに抜くと中心がふっくらと盛り上がって見た目もきれいです。

 

私の場合は抹茶を買ってきて、冷凍庫に保存しておきます。茶碗は知人の陶芸家が作った志野茶碗を愛用していますが、これはお茶を点てやすく、口当たりも良く飲みやすいからです。茶杓は、かつて自分で削ったものです。菓子は干菓子。好物は「和三宝」甘みがさわやかで、口に含むとさわやかな甘みが広がる、その甘みが残っているうちにお茶を飲むのです。抹茶の量、お湯の量は自分の好みで、その時々に応じて増減自在です。のどが乾いていれば、お湯を多くいれたり、お替りをして飲みます。自分だけでなく、家人にも伺って飲みたい人には好みに応じて点てることにしています。お茶を点てれば、家族との会話もできて家庭サービスにもなります。

「茶の湯とは たヾ湯を沸かし 茶をたて のむばかりなる 事と知るべし」利休の歌のとおりです。

 

再び転じて冷たい話題です。

 真夏に熱いお茶は?……という方にお奨めは“抹茶の冷水点て”、これは江戸千家家元の川上宗雪宗匠から“直伝”のものです。手順は、冷えたグラスにまず氷を数個入れます。氷はロックアイスがあればベターです。次に冷凍庫に保存してあった抹茶をスプーン1杯程度いれます。そこに冷えたミネラルウォーターを注いで、マドラーでかき混ぜる。これが“秘伝”のすべてです。グラスを通して萌黄の色はすがすがしく、抹茶の香も爽やかで、すっきりした喉越し、これはまさに真夏の最良の一服です。

最近、スーパーマーケットで粉末の緑茶(“抹茶”ではない)を発見し、早速、買ってきて抹茶の替わりに試してみました。抹茶よりは冷水に溶けやすく、茶殻の後始末も不要です。専らこちらの粉末の緑茶を愛飲しています。歳のためか、朝の目覚めが早くなりました。起きると洗顔、歯磨き、舌磨き、うがいを終えて朝の“一服”ではなく“一杯”。

 

そこで、パソコンに向います。「つれづれなるままに 日暮しパソコンに向ひて 画面に映り行く デジカメ写真の数々を スライドショーで 眺め続けることこそ シニアライフの楽しみなれ。」「パソコンは シニアライフの オモチャなり ワープロもあり デジカメもあり」・・・・・・・・・・・・・・・・・・わが家の新鋭パソコンは、酷暑のためか、それとも酷使のためか原因不明のまま先週ダウンしてしまい、現在、入院中です。一刻も早い退院を望みながら、老兵のパソコンに助けられてこの稿をしたためました。次回から、再び“東博シリーズ”に戻ります。

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8回:
 魅力あふれる“東博”の建物(2)…庭園内の5棟の茶室…

 【メルマガIDN 第57号 2004年8月15日発行】

東博は本館、表慶館のような“明治以降の近代建築”に対して、本館北側の庭園には“明治以前の和風建築”すなわち5棟の茶室もある。
  庭園内茶室は、西側から九条館、応挙館、六窓庵、転合庵、春草盧が点在している。このうち、九条館と応挙館が広間の茶室で、六窓庵、転合庵、春草盧は小間の茶室である。茶室はいずれも由緒あるものばかりで、茶人の小堀遠州、金森宗和をはじめ、明治以降の近代数寄者で各世代のリーダーといわれる井上世外(馨)、益田鈍翁(孝)、原三渓(富太郎)、松永耳庵(安左ヱ門)のゆかりの茶室等もあり、東博は東京では音羽の護国寺、青山の根津美術館と並んで名茶室が揃っているところでもある。
 この茶室を利用できることはあまり知られていなかったが、この4月から東京国立博物館のホームページが充実して、直接申し込みができるようになった。また東博の庭園は、樹木の種類も多く、桜は10種以上、椿は20種以上あるといわれ、四季を通じて楽しめる……、といいたいところだが、夏は蚊の執拗な歓迎があり、冬は冷房完備である。しかし、春の新緑と桜、秋の紅葉を見ながらの茶会は“サイコーです”。

九条館……もと五摂家・九条公爵の当主の居間
  九条館は、もと五摂家のひとつ、九条公爵の当主の居間として使用していたものを、九条道秀氏より寄贈され、昭和9年(1934年)に東京赤坂の九条公爵邸から当博物館に移築されたものである。木造瓦葺き平屋建て、10畳2室で廻り廊下つきである。
  一の間の床は狩野派一門による山水図が描かれており、欄間は花梨の一枚板に花菱の透かし彫りがなされおり、違い棚の端には筆返しがつけられている。筆返しは当初、物が転び落ちないためのものであったが後に装飾化されたものだという。欄間、違い棚、釘隠しに藤の文様が使われているのは、九条家の先祖の藤原家に因むもの。天井と長押との間にある細長い壁は蟻壁(ありかべ)とよばれ、正式な書院造りに見られるもので、天井をより高く豪華に見せている。
  応挙館の廻り廊下の外側が障子であるのに対して、九条館はガラス戸であるから部屋の中は明るく、ガラス越しに4代清水六兵衛が明治41年に作ったという陶器製の燈籠やメグスリノキという珍しい樹木を眺めることができる。さらに、近くにはイチョウの大樹が2本あって春先の新緑はすばらしい。秋日に輝く金色も見ごたえある。しかし、地面を埋め尽くす程の銀杏の香りには悩まされる。やはり秋のイチョウは、遠くにあって金色の姿を眺めるものなのだろう。 
応挙館……応挙の墨画に囲まれた広間の茶室
  応挙館は、寛保2年(1742年)、愛知県大治町の天台宗の明眼院(みょうげんいん)の書院として建てられたものを、後に品川御殿山の益田鈍翁邸に移築、さらに昭和8年に当博物館に寄贈されたものである。
木造瓦葺き平屋建て、18畳2間で九条館に比べて一回り大きい。九条館が寄せ棟造りであるのに対し、応挙館は入母屋造りである。床張付(絹や紙に描いて、それを室内の板や壁に貼り付けた障壁画)は、応挙が52歳のとき目の治療で明眼院に滞在した際に揮毫したといわれる。
(注:応挙館については、5月1日の「メルマガIDN」第50号をご参照)
六窓庵……宗和好みの明るい茶室
六窓庵は六つの窓を持つ茶室で奈良国立博物館にある八窓庵などとともに「大和三茶室」のひとつに挙げられている。17世紀中ごろ、茶道宗和流の開祖で、京焼の仁清を指導したという金森宗和により、奈良興福寺の慈眼院(じげんいん)内に建てられたものを、博物館が購入し、明治10年に移築された。
入母屋造りで茅葺き、三畳台目の茶室。床が勝手付きの方に配置されている宗和好みの茶室である。茶室以外の水屋、寄付、腰掛、雪隠を明治14年に古筆了仲が増築し、第二次大戦中、一時期解体されたが、昭和22年現在地に再建されたという。東博庭園内の茶室の中ではただひとつ、内露地と外露地の二重露地を備え最も茶席の機能を完備したものである。
利休の求めた茶室が、暗い空間であったのに対し、織部、遠州、宗和は多く
の窓を配し明るい空間をつくり、窓の開け方も工夫されている。宗和は、遠州、片桐石州とも親交があり、さらに公家との交流も多かったといわれる。
転合庵……茶入を披露のため遠州が建てた茶室 
  転合庵は、小堀遠州が桂宮から茶入「於大名」を賜わり、宮家を招いてその茶入披露の茶会をするため伏見の邸内に建てた茶室で、その後、京都の寂光寺へ移築、昭和38年に塩原千代氏から当博物館へ寄贈されたもの。本館の北側の休憩室から池を隔てて眺められる茶室がこの転合庵で、小堀遠州の自筆の扁額が掛けられている。

  屋根は桧皮葺き。左側が二畳台目茶室。下座床で「にじり口」と「貴人口」が矩折りに配置され、遠州好みの明るく開放的な雰囲気を醸し出している。渡り廊下で水屋と四畳半の席に連結されている。
茶人の特徴を一言で表した狂歌に「織(おり=織部)理屈、綺麗キツハハ遠江(とおとうみ=遠州)、於姫(おひめ)宗和ニ ムサシ宗旦」がある。
  豪放奔放ではあるが理屈っぽい織部に対し、遠州は綺麗で立派いわゆる「綺麗さび」の世界である。宗和は公家好みでおとなしく「姫宗和」とも呼ばれ、利休の孫の宗旦はわびに徹し素朴だったので、むさくるしいという意らしい。この4人の名茶人の茶室うち織部好みの燕庵(藪内流)、宗旦の又隠(裏千家)は、京都に行かなければ拝見できない。宗和と遠州の好みの茶室は東博の庭園の隣り合わせの場所で拝見できる。やはり、東博の庭園はすばらしい。転合庵の前は樹木もなく開けていて池が広がり、春には池越えにオオシマザクラ、シダレザクラを眺めながら花見の茶を楽しむことができる。しかし、こんなすばらしい景色にめぐり合えるのは1年のうちわずか1週間程度、機会を逸したら1年待たねばならない。
春草廬(しゅんそうろ) ……三渓から耳庵へ、耳庵から東博へ
  第5番目の茶室は春草廬である。この茶室は、江戸初期、海運と治水で功績のあった豪商の河村瑞賢が、約三百年前大阪淀川の治水工事の際に休息所として建てたもので、本来茶室として建てたものではない。それ故、飾りのない素朴さが魅力となっている。横浜の三渓園を造った原三渓(富太郎)が松永耳庵(安左ヱ門)に寄贈し、所沢市の柳瀬荘に移築され、戦後、柳瀬荘が東博に寄贈され、昭和34年に現在地に移築されたという経緯を辿っている。 転合庵と同様、茶席からの眺めは春先が一番である。茶席の前にはダイコンソウが一斉に咲き、遠くにはシダレザクラ、ケンロクエンキクザクラを堪能できる。
庭園を見学するには・・・
 東博の庭園は、残念ながらいつも入れるわけではない。というのは、庭園は春秋年二回を除いて非公開だからである。この秋の公開日は10月26日から11月30日までの予定である。東博入館者から庭園の見学の希望が絶えない。その要望に応えようとするのが、ボランティアの自主企画活動として実施している「庭園茶室ツァー」である。庭園内には、茶室のほか、史跡、珍しい樹木も多く、これらをおよそ1時間で案内するものである。平成15年には、23回開催され、その参加者は605名  にのぼった。参加者からは、「東博にこんな庭園や茶室があることを初めて知った」「茶室以外にいろいろなものがあることが判った」「ただ歩いただけでは判らないが、ボランティアのガイドで理解できた」などとの感想が寄せられ好評である。
  まだ庭園をご覧になっていない方は、公開日に東京国立博物館へどうぞ。入館者は無料で見学できます。それとも「庭園茶室ツァー」のご参加ください。こちらも無料です。ただし、誘導する際の安全を期するため、参加者を30名程度に限定しています。開催の予定日は、東博のホームページで確認してください。「催し物」をクリックし、「ボランティアのよる解説・イベント」で詳しい日程がわかります。
 http://www.tnm.jp

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■第9回:
四季を通じて楽しめる“東博”の草木(1)

【メルマガIDN 第58号 2004年9月1日発行】

楽しい“トーハク植物園”

東博の庭園には、様々な植物が植えられている。したがって、年間を通じて四季折々の樹木、草花の移り変わりを楽しむことができる。

花木だけを見ても、春は様々な桜、夏にはサルスベリ(百日紅)スイレン(睡蓮)、秋にはハギ(萩)、スイフヨウ(酔芙蓉)、冬にはコウバイ(紅梅)、ハクバイ(白梅)、カンヒザクラ(寒緋桜)・・・と花の絶える時がない。

高木の落葉樹ではユリノキ(百合の木)、イチョウ(銀杏・公孫樹)、ケヤキ(欅)など、春は新緑、夏は茂った葉、秋は黄葉・紅葉、冬は落葉後の見事な枝ぶりを楽しめる。

このように、東博に多種多様の植物があるのは、創設時の構想が誠に壮大であったことによる。というのは、当初の博物館が目指したのは、単に天造物・人口物を陳列する「博物館」に留まらず、有用植物を植え、動物をも飼育する「博物園」、さらに古今の書籍を集めて閲覧させる「書籍館」と、総合的な自然史博物館であった。そのため明治の初めから、動植物を扱う天産課、園芸課がおかれて、それがさらに強化されて「天産部」となっている。

その後も、植物の保護・育成が続けられ、現在では都心において小石川植物園、新宿御苑、明治神宮などと並んで、いろいろな植物を集中して観察できる場所となっている。

 

ユリノキ・・・東博のシンボルツリ

 名木、珍木など多種多様な植物が多いなかで、まず取り上げなければならないのは、東博のシンボルとして親しまれているユリノキ(百合の木)である。樹齢は推定約130年。高さ32m、幹回り4.8m、東博で一番目立つ巨木でもある。 別名をチューリップツリーといい、葉の形が半纏(はんてん)に似ているためハンテンボク、また奴凧や軍配に似ているのでヤッコダコノキ、グンバイノキとも言われる。明治23年大正天皇が皇太子の頃、小石川の植物園を訪ねたときにこれを「ユリノキ」と命名されたと伝えられ、一般には一番馴染み深い愛称となっている。

初夏5月の頃になると、枝先にチューリップによく似た黄緑色の花を咲かせ、花びらの基部は橙赤色になる。花からは甘い香の漂い、この花を慕って木の下に置かれたベンチでくつろぐ来館者も多くなってきている。

さらに、秋が深まった頃、黄色に染まるユリノキを澄んだ青空の中で眺めるのはなんともいえない光景である。紙塑人形で人間国宝に指定され、アララギ派の歌人としても有名な鹿児島寿蔵が詠んだユリノキの歌がある。

百合の樹の 広葉ひらめき散るを見つ 閉門どきの 庭をよぎりて

これは、多分この東博のユリノキを詠んだものではないかと思われる。

すっかり葉を落とした冬のユリノキもすばらしい。真っ赤な夕焼け空に映し出される幹から末端の小枝にいたるまでのシルエットはまさに繊細なレース編みを見るかのごとくである。


               

                                    
                                                                            

万葉歌人が愛したアセビ

 アセビ(アシビ・アセボ:馬酔木)はスズランに似たかれんな花が枝先に鈴なりに垂れ下がる。しかし、葉陰に楚々として咲く白い花からは想像できないが有毒だという。馬がこの葉を食べると酔ったようになるので「馬酔木」と名付けられたといわれているが、酔ったのではなく、馬がアセビを食べて中毒を起こして苦しんでふらついたのではないのか。

東博では法隆寺宝物館にあるレストランの南側の道路沿いに2本のアセビがあるが、来館者はそこまで立ち入れない。京成電鉄の旧博物館動物園駅入口すぐそば、「黒門」よりの道路からの方が見やすい。

また、転合庵の蹲の傍らにも大きなアセビがある。春先、アセビとサクラが同時に満開となる頃、ここからの眺めはなんともいえない。

日の照りて桜満ちたる転合庵 馬酔木の花も咲き競うなり

さらに、六窓庵の石燈籠のかたわらに1本、水屋の前に4本植えられていたという記録があったので先日確認してみたが、枯れてしまったのか植え替えられたのか見当たらない。

 白い鈴を並べたアセビは万葉植物のひとつ。万葉歌人に詠まれたアセビの歌は10首。その中でも、大来皇女(おおくのひめみこ)の歌がアセビを有名にした元祖である。

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに(巻2:大来皇女)

皇位継承を巡り、謀反の罪で処刑された弟の大津皇子の面影を偲び、哀切の情が込められた歌である。

 アセビを詠んだ歌には、万葉人の純粋な心を表した次のような歌もある。

    わが背子にわが恋ふらくは 奥山の馬酔木の花の今さかりなり(巻10:作者未詳)

私が初めて「馬酔木」という言葉に出会ったのは大来皇女の歌である。変わった詠み方をするので名前だけは覚えていたが、故郷の信州ではお目にかかったことはなかった。寒いところでは育たないのだろうか。

東博でボランティアを初めて間もない頃、樹木に詳しい方からアセビの所在を教えていただき、それ以来、春の楽しみが増える事になった。アセビについて私が解けない謎が三題。一つはなぜ「馬酔木」と表記するのか。もうひとつは、万葉集にはアセビの歌数多くあるのに、なぜ古今集をはじめ平安文学から全く姿を消してしまったのか。三つ目は、大来皇女は、毒があるのを知っていてアセビの枝を手で折ったのだろうか。


ネジバナ・・・野草の美人

ネジバナ(捩花)は春から夏にかけて、淡いピンクの花が螺旋状に咲く。日当たりの良い草地や芝生に生え、10センチほどの丈のかれんな草花で「野草のなかでは一番の美人」という人もいる。

日本全土に見られるそうだが、私は東博にボランティアをするまで知らなかった。最初、「ネジバナが咲きましたね」といわれても、何のことかなのか判らない有様だった。伺ってみると、本館前にあるヨシノシダレの周りの芝生に沢山咲いているという。何回となくその前を通っていたのだが気づかないでいたのだ。

ネジバナは鉢や庭に植え替えようとしても育てるのが難しいそうだが、これも不思議な魅力で、やはり野にあって愛でる花なのだろうか。

 別名をモジズリ(捩摺、文字摺)といって、古くからの恋の歌枕でもある。

  陸奥の忍ぶもぢずり誰故に 乱れ染めにし我ならなくに (河原左大臣 源融  古今集)

これは、百人一首や伊勢物語の最初の段にも引用され「もぢずり」を有名にした歌でもある。

陸奥という当時の歌人にとっては、多分訪れたことのない遠く未知の憧れの地、そこにある「信夫」の里と「忍ぶ(恋)」の掛け言葉。「信夫もぢずり(忍捩摺)」とは、現在の福島県信夫郡で産した布で、草花を捩り摺りつけ乱れ模様に染めたもの。そのかすれた細かいもじり模様が、ネジバナのねじれて連なる状態に良く似ているとのこと。「そめ」は、「初め」の意と「染め」の掛け言葉で、「乱れ」と「染め」は「もぢずり」の縁語である。なんと複雑なことだろう。

しかし、当時の流行題材の「しのぶもぢずり」を詠む歌人が多かったようだ。

陸奥の忍ぶもぢずりしのびつゝ 色にはいでじ乱れもぞする 寂然法師(千載集)

さらに、百人一首の選者の藤原定家までが詠んでいる。
         陸奥の信夫もぢずり乱れつつ 色にを恋ひむ思ひそめてき

 いずれの歌も、ことばの綾と遊びであって、とても素直に感動できない。やはり「歌は万葉」である。           
(以下は次号)

 

* 今回は、東博の数多い草木のうち、高木の代表としてユリノキ、低木の代表としてアセビ、草花としてネジバナをとりあげました。

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第10回:四季を通じて楽しめる“東博”の草木(2)
【メルマガIDN 第59号 2004年9月15日発行】

多種多様のサクラとツバキ

東博の樹木では、サクラとツバキの種類が多い。植え替えられたり、枯れたりして正確な数は判らないが、サクラはおよそ20種類弱、ツバキは20数種類ある。

東博の春は、カンヒザクラ<ヒカンザクラ>(寒緋桜)の開花とともに始まる。正門を入ってすぐ左手にあって、濃い紅紫色の花が1〜2個集まって下向きに釣鐘状に咲く。

  国頭(くにがみ)の 山の桜の 緋に咲きて さびしき春も 深みゆくなり

国文学者折口信夫は、野生のカンヒザクラを見ようと沖縄に行き、国頭の八重岳で詠んだ歌で、近代短歌ではただ一首のカンヒザクラの歌だという。

本館前の池を挟んでユリノキと対峙し半円形の姿をしているのはヨシノシダレ(吉野枝垂)。この満開の時が、本館が最も華やかに輝く時でもある。東博のシンボルとして「右近のユリノキ、左近のヨシノシダレ」となりつつあり、いずれも四季の変化が楽しめる樹木である。

このヨシノシダレとともに三島市の国立遺伝学研究所から昭和44年に寄贈を受けたケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)、ミカドヨシノ(御帝吉野)も見落とせない桜の名品種である。現在、最もポピュラーなサクラは、江戸で生まれで江戸で育ったソメイヨシノ(染井吉野)であるが、その両親に当たるオオシマザクラ(大島桜)とエドヒガン(江戸彼岸)は、いずれも本館北側のベランダの近くにある。これらを眺める最高の花見席は、池の向うの転合庵である。

 

上野の杜で発見されたソメイヨシノ

このソメイヨシノの発見と命名が東博の職員によってなされたことを知ったのは最近のことで、その経緯はつぎのようである。

博物館の初代局長(館長)町田久成のもとで博物科長、天産課長を務め、2代目の博物局長となった田中芳男(男爵)は、パリ万博に出向き海外から新しい農作物を導入した生物教育の先駆者でもある。この田中芳男が農商務省から藤野寄命(よりなが)を博物館の天産部職員に迎え、上野の山のサクラの詳細な調査を計画し明治18年から19年にかけて実行した。藤野は精養軒の前の通路のあたりで移植されて間もない見慣れないサクラを数本発見し、これが染井から来たサクラであることを突き止めて新しい品種だと判断した。そこで染井(現在の東京都豊島区駒込6〜7丁目付近)から来た吉野桜の意から「染井吉野」と命名したという。ソメイヨシノが初めて公表されたのは明治33年になってからのことで、藤野寄命が論文「上野公園桜花の性質」を『日本園芸会雑誌』に発表し、翌34年、学名プルヌス・エドエンシスが与えられ、ここで正式に認知された。いずれにせよ、ソメイヨシノと東博が関係にあることは興味深いことである。

 

庭園内で、純白のオオシマザクラ(大島桜)、エドヒガン(江戸彼岸)、ソメイヨシノ(染井吉野)が咲き、さらにレモンイエローの変わり色のギョイコウ(御衣黄)、ショウフクジザクラ(正福寺桜)が次々に咲く。その後、八重咲きのイチヨウ(一葉)、カンザン<セキヤマ>(関山)と続き、北側庭園のケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)が最終ランナーとなる。

このほか、ロトウザクラ(魯桃桜)、ウスズミカンザクラ(薄墨寒桜)、ショウワザクラ(昭和桜)、キクザクラ(菊桜)、センダイヤサクラ(仙台屋桜)などもあって、まさに東博は「桜の園」でもある。

法隆寺宝物館の英文の館銘表示の近くにあるカンザンの花びらが池に散った姿も美しい。池の近くで見ても良く、宝物館の2階に上がり、格子越しに眺めるのも面白い。

いやはてに 鬱金ざくらの かなしみの ちりそめぬれば 五月はきたる

 

逝く春を惜しんで北原白秋は歌を詠んだが、カンザンの花びらが池に散ると東博の春は終わりさわやかな初夏を迎える。東博のウコンザクラ(鬱金桜)は記録には残っていたが、枯れてしまって残念ながら今では見ることはできない。ちなみに万葉集では4516首のうち160種の植物が登場するが、最も多いのはサクラで50首。やはり、古代から日本人に愛されてきた花である。

 

様々なツバキ

茶の木と同じ仲間で、茶席を飾る早春の花がツバキ(椿)である。秋に咲くサザンカ(山茶花)とともに日本原産の樹木。ツバキの花は一般にポトリと落ちるので打ち首を連想して武士に嫌われたことで有名だが、一方、サザンカの花は花びらがバラバラに散る。ツバキの花は2種を除いてほとんど匂いがないが、サザンカは匂いあるものもある。ツバキは、材が堅いことから邪気や災いを祓う杖として古くから使われた。正倉院の宝物の中に、女帝の孝謙天皇が天平勝宝4年(675年)東大寺の大仏開眼供養の際に使われたという金銀など五彩に仕上げたツバキの杖があるが、まだ拝見する機会がない。 

ツバキは園芸品種が多く、現在では1万種を越す品種が認められている。東博にツバキが多いのは、森永徳弘氏の尽力の賜物のようだ。昭和42年から約3年間、東博の総務部長を務められた森永氏はその在任中、庭園内の樹木の保護と補植に努力され、サクラ11本、ツバキ26本・19品種、前庭のスイレン4種、カイノキ(楷の木)、ヤマボウシ5本、ハギ10株を植えたとされている。

本館の西側には、「つらつら椿」とか「九連椿」といって、壁面に沿ってキンギョツバキ(金魚椿)、オオニジ(大虹)、ベニワビスケ(紅侘助)、フクリンイッキュウ(覆輪一休)、コモミジ(小紅葉)、ベニオトメ(紅乙女)、ハクオトメ(白乙女)、コンロンクロ(崑崙黒)、キョウカノコ(京鹿子)の9種ノツバキが一列に並んで植えられている。この「つらつら椿」という命名は、おそらく万葉集の歌からの引用だろうが、なかなか洒落ていて面白い。

     巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を(巻第一 54)

     川の上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春のは (巻第一 56)

大伴家持もツバキを詠んでいる。

    あしびきの八つ峰(やつを)の椿つらつらに見とも飽かめや植ゑてける(巻第二十 4504)

音感が共鳴するのか3首とも「椿」と「つらつら」のことばが詠み込まれている。

このほか東博でツバキがまとまって植えられているところは、正門を入った左側にランビョウシ(乱拍子)、ベニグルマ(紅車)、ミケンジャク(眉間尺)、アマノガワ(天の川)、ホシボタン(星牡丹)、表慶館の西側にベニグルマツバキ(紅車)、アマノガワ(天の川)、ユキツバキ(雪椿)が、本館北側の裏門近くから六窓庵の道路沿いにかけて、ナギサカモン(渚花紋)、アマノガワ(天の川)、ハクオトメ(白乙女)、ベニワビスケ(紅侘助)、クマサカツバキ(熊坂椿)、カンツバキ(寒椿)がある。

 

珍しい木、話題の木

タラヨウ(多羅葉)

珍しい名前のタラヨウは、法隆寺宝物館と十輪院の校倉の間に1本、六窓庵の燈籠のそばに1本ある。葉の裏側を傷つけるとその部分が黒くなる。

仏教の聖木であるターラ樹(別名:多羅、オオギヤシ)の葉に性質が似ているためこの名がついたらしい。古代インドではターラ樹の葉を乾かして紙の代用としたものを貝多羅葉(ばいたらよう)と呼び経文を書いたという。法隆寺宝物館にある重文「梵本心経および尊勝陀羅尼」は貝多羅葉に梵字で墨書したもので、一見しただけでは紙に書かれているものと区別がつかない。横の長さが約28cmあるので、ターラ樹の葉はタラヨウの葉と比べて数倍大きい。

 

メグスリノキ(目薬の木)

メグスリノキは、九条館の前にある。カエデ科の落葉樹の高木で、日本の山地にのみ自生している数の少ない日本特産の薬木である。江戸時代以前から、この木の小枝や樹皮を煎じて服用したり、洗眼すると目の病気に良いとしてかなり知られていたようだ。明治以降、西洋医学の導入で一旦は忘れられた存在となっていたが、最近になって、眼精疲労のみでなく肝臓の強化にも効果があることがわかり、メグスリノキの樹皮や小枝をチップ状にしたものが販売されている。標高700m前後の山地にしか自生しないという樹が東博の庭園で見ることができるのは、やはり明治時代の天産部の遺産であろう。

 

スイフヨウ(酔芙蓉)

スイフヨウは晩夏から初秋にかけて花が咲く。朝に白い花を咲かせ、午後になると次第にピンクにかわり、夕方から夜にはさらに赤みを増す。酒を飲んで酔いが廻り次第に顔が赤くなることにたとえて、「酔う芙蓉」から「酔芙蓉」と名付けられたという。東博では、本館の東側、レストランラコールとの間にあって、毎年初秋には花を咲かせる。この開花の時期には東洋館で国宝・南宋の李迪「紅白芙蓉図」が展示される。粋な計らいである。

 

オリ−ブの大木

東博には東京近辺では珍しいといわれるオリーブの大木がある。法隆寺宝物館の英語の館名表示の裏にあって、枝が池まで張り出している。もとは北側庭園の六窓庵の近くの日陰にあって枯れかけていたものを、現在のところに移植して助かったという歴史があるという。銀白色の葉裏がキラキラと光るのは美しい。

 

ハクショウ(白松)

  アカマツ(赤松)、クロマツ(黒松)は、松葉が2本であるのに対し、ハクショウは3本にわかれている。老木になると灰白色になるのでこの名がついたという。ハクショウで有名なのは高野山の伽藍、御影堂の前にある「三鈷の松」である。東博のハクショウは、まだ若々しく高さも2mに満たない。本館北側の庭園の初代博物局長町田久成の顕彰碑の前にあるが、気をつけて見なければ見過ごしてしまうほどである。高野山では聖木であるが、東博では目立たない。

 

このほかにも、東博には「生きた化石」といわれているメタセコイヤ(曙杉)、孔子の墓所に植えられているので別名「孔子木」と呼ばれるカイノキ(楷の木)など話題とする樹木がある。

いずれにせよ、東博ほど美術品、建物、庭園草木の3拍子が揃っていて四季を楽しめるところは他にはない。東博の3つの魅力である。

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■第11回:生まれ変わった“東博”本館
【メルマガIDN 第60号 2004年10月1日発行】

さわやかなエントランスホール

東博の本館がすっかり生まれ変わった。グランド・オープンした初日の9月1日、早々に出向いてみた。

7〜8月の2ヶ月、本館を完全に閉館してのリニューアル。多分、戦後はこれほど長期に閉館したことはないだろう。新しくなった本館(日本ギャラリー)をいち早く見ようと待ち焦がれていた来館者が多いようだ。実は、その一人である私も、東博の「パスポート」(注)を提示して正門から本館へ直行した。

エントランスホール全体がさわやかになった。正面階段の蹴上げの両サイドが青く、中央の部分が白くなっている。自然に吸い込まれて進んで行きたい気分になる。重厚さを残しながらも、すっきりとした感じになった。階段の上り口の両側と正面の大時計下の踊り場には生け花の飾りもあって正月のような華やいだ雰囲気である。

ところが、いままで階段の右側のあったインフォメーション・カウンターが消えてしまっている。どこかと思って見回してみると、階段左側の奥まったところに引っ込んでしまっていた。「インフォメーション」は、来館者が情報を求めてそれに対応するところ。一番目立つところ、すぐに判るところになければならないのに、どうして目立たないところに変えてしまったのだろう。

(注)「パスポート」とは、

  年会費(一般3000円、学生2000円)を正門左側の窓口で支払えば、その日から1年間、平常展は何度でも、特別展は6回(各特別展につき1回のみ)観覧できるという東博の制度。東博の特別展を年3回以上見学すれば採算が取れる。格安で便利なため是非お奨めしたい。

 

展示室は1階が「11室」から、2階が「1室」から始まる

  ともかく、一巡してみることにした。まず1階左側の最初の展示室。かつて東博の中では比較的明るい陶磁展示室だったこの部屋は、一転して暗い彫刻の展示室に変わった。円柱に仕切られ、ほの暗い寺院の中に入ったような雰囲気の中で、スポットを浴びた仏像を拝見できる。なかなかすばらしい。以前の彫刻の部屋は導線が蛇行していたが、今度は直線に両側に仏像が配置されていてすっきりして見やすい。

この部屋はリニューアル以前、「1室」と呼ばれていた部屋。ところが現在では「11室」と変更されている。

東博に来て、まず1階を見ようと右に曲がると、部屋の番号が「11室」となっている。誰もが疑問を抱いて、1室はどこだろうかと訊きたくなる。ところがかつて1室の入口近くにあったインフォメーションもない。初めての来館者は、果たして、この11室と表示されている部屋から見始めてよいのだろうかという不安と疑問を持ちながら見るだろう。

リニューアルに際して、「変えるべき部分」と「変えてはならない部分」があるといわれる。1階と2階の展示室の番号を入れ替えたこととインフォメーションの場所を変えたことの2点は、「変えてはならない部分」を変えてしまったのではないかと感じたのは私だけだろうか。

                                         

工夫された導線と照明

リニューアル後の展示構成は、1階は「分野別展示」で、陶磁や漆工、刀剣など自分の好きなジャンルをゆっくり楽しめるとされている。

私の好きな陶磁についてみると、13室に江戸時代を中心に数点の桃山時代の名品が40数点展示されていた。展示スペースが以前に比べておよそ半減しているのに、名品が多く展示されているためか見劣りしない。しかも見やすくなった。

どうしてだろうか、私なりに考えてみた。その答えは導線と照明にあるらしい。いまから思うと、以前の陶磁室は導線が彫刻と同じく蛇行して複雑だった。陶磁に興味がある人にとっては、楽しい蛇行も、陶磁室の先の部屋へ急ごうとする人にとっては、わずらわしい蛇行であった。今回、これは解消された。東博の1階に“新幹線”が敷かれ、漆工、刀剣、民族資料等の展示室へ行くには、直線で辿り着けるからである。

従来は、陶磁を鑑賞する人も、通り抜ける人も同じスペースを共用していた。それが現在では、通り抜ける人は幹線を通って自分の目指す展示室へ直行でき、ゆっくり鑑賞したい人は、通り抜ける人とは無関係に落ち着いて作品と対面できるのである。 これは「変えるべき部分」を改善した一例だろう。

照明もいろいろ工夫されているようだ。全体が以前よりは暗くなった。明るいと散漫になるが、ほの暗く落ち着いた雰囲気の中で、スポットを浴びている陶磁の名品に集中して出会えることはありがたい。

ただ、陶磁愛好家にとってわずらわしいのは、本館だけでも、陶磁がまとまって展示されているところが5ヶ所にわたっていることである。

すなわち、現在東博に行って、陶磁を鑑賞しようとすると、1階では、13室に前述の江戸を主体に桃山の陶磁、14室に常滑、丹波、珠洲、瀬戸などの特集陳列「中世の陶磁」、19室に明治以降の「近代工芸」がある。2階の時代別展示では、4室で「茶の美術」で茶碗、水指、花入などの茶道具を、8室の「暮らしの調度」で再び江戸と桃山の陶磁というように散在している5部屋を渡り歩かなければならない。

しかし、見方を替えると、東博の陶磁は分野別、時代別にいくつもの部屋で展示をし、さらにそれを定期的に展示替えができるほど豊富な収蔵数がその魅力かもしれない。

 

特別展さながらの国宝、重要文化財の名品が続々

今回のリニューアルの特徴のひとつは、昨年7月の“ミニ・リニューアル”の時代別展示「日本美術の流れ」をさらに進めて、「仏教の興隆」「宮廷の美術」「禅と水墨画」など、時代ごとにテーマを設定して、縄文から江戸時代までの日本の文化・美術史を短時間で一望できることである。

東博の収蔵品は、日本を中心とする東洋の美術作品と考古遺物を収蔵し、その数は10万件以上にのぼり、そのうち国宝が91件、重要文化財は618件(平成15年3月現在)だという。本館リニューアルの最初ということもあって、その膨大な収蔵品のなかから選ばれた国宝、重要文化財の名品が数多く展示され、今までに例を見ないほど質量とも充実し平常展が展開されている。勝手に私が名前をつけるなら『国宝・重要文化財の「ほんもの」でたどる日本美術の流れ…本館リニューアル記念特別展…』としたい。平常展であるから、満65歳以上の方は健康保険証、運転免許証など年齢を証明できるものを提示すれば無料で入館できる。

とにかく、リニューアル後の東博は一見に値する。いや、一見ではすまない。

何度見ても見飽きない。いつ訪れても新しい感動があり、新鮮なところが東博である。

 

参考までに、現在、本館(日本ギャラリー)に展示されている約620件のうちおもな名品を展示室別に列挙すると下記のとおりである。

期日の迫っている名品多いので早めにどうぞ。

  [●は国宝、◎は重要文化財、○は重要美術品]

A. 時代別展示(2階)
1室 日本美術のあけぼの−縄文・弥生・古墳(2005年2月27日まで)
  ◎土偶 宮城県田尻町恵比須田出土
1室 仏教の興隆−飛鳥・奈良 (10月3日まで)

   ●賢愚経断簡(大聖武)伝聖武天皇筆、●興福寺鎮壇具 草花蝶鳥八花鏡 
2室 国宝室 
  ●普賢菩薩像(10月11日まで)、●鳥獣人物戯画 甲巻(10月13日から)
3室-1 仏教の美術−平安〜室町(10月3日まで)
  ●円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書 小野道風筆
  ●金銀鍍宝相華唐草透華籠
3室-2 宮廷の美術−平安〜室町(10月3日まで)
  ●平治物語絵巻(六波羅行幸巻)、○古今和歌集(高野切本)伝紀貫之筆
  ●片輪車蒔絵螺鈿手箱
3室-3 禅と水墨画−鎌倉〜室町(10月3日まで)
  ●竹斎読書図 伝周文筆
4室 茶の美術(12月12日まで)
  ◎青磁茶碗  銘馬蝗絆、○大井戸茶碗 有楽井戸、○熊野懐紙 藤原定家筆
5・6室 武士の装い−平安〜江戸(12月12日まで)
  ●刀 (号 上杉太刀)、●群鳥文兵庫鎖太刀、●白糸威鎧 島根・日御碕神社

◎伝足利義政像 土佐光信筆
7室 屏風・襖絵−安土桃山・江戸−(10月11日まで)
  ●楼閣山水図屏風 池大雅筆、○山水図屏風 狩野探幽筆
8室-1 暮らしの調度−安土桃山・江戸(12月5日まで)
  ◎柴垣蔦蒔絵硯箱 古満休意作、○色絵桜楓文鉢 道八作 
8室-2 書画の展開−安土桃山・江戸(10月11日まで)
  ◎船窓小戯帖 田能村竹田筆
9室 能と歌舞伎 特集陳列「金春座伝来の能装束」(10月31日まで)
  ◎縫箔 白地雪持柳扇面肩裾模様、◎縫箔 茶地百合御所車模様

10室 浮世絵と衣装−江戸

小袖藍綸子地熨斗菊花模様(10月31日まで) 

 

B.分野別展示(1階)
11室 彫刻(11月28日まで)
  ●四天王立像広目天、◎千手観音菩薩立像 湛慶作、◎十一面観音菩薩立像
12室 彫刻と金工(11月28日まで)
  ◎大日如来坐像、◎金銅三昧耶五鈷鈴、◎金剛盤
13室-1 陶磁(12月5日まで)
  ◎色絵月梅図茶壷 仁清、◎色絵牡丹図水指 仁清、◎銹絵観鴎図角皿 光

  琳・乾山作、◎色絵花鳥文大深鉢、◎信楽一重口水指 銘柴庵、◎染付龍

涛文提重 青木木米作
13室-3 刀剣(12月5日まで)
  ●太刀 三条宗近銘三条、●刀 相州正宗 無銘正宗
14室 特集陳列「中世の陶磁」(12月12日まで)
  ◎自然釉大壺 常滑、◎四樹文大壺 珠洲、◎自然釉秋草文四耳大壷 丹波

◎黄釉牡丹唐草文広口壷 瀬戸

 

C.企画展示

2階・特別1室 特集陳列「古筆を楽しむ」(10月24日まで)
●秋萩帖 伝小野道風筆、◎継色紙 伝小野道風筆 、◎手鑑「月台」 

2階・特別2室 特集陳列「肖像画」(10月11日まで)
◎後白河法皇像

1階・特別4室 特集陳列「銅鐸の絵画」(10月11日まで)

  ●銅鐸 伝香川県出土


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■第12回(最終回)“東博”ボランティアに三楽あり
【メルマガIDN 第61号 2004年10月15日発行】

ボランティア活動の契機

上野の東京国立博物館は、通称「東博」(トーハク)と呼ばれている。その東博で、目下、ボランティア活動を楽しんでいる。

 平成14年1月、日本経済新聞で東博がボランティアを募集するという記事をみつけ早速応募した。昭和39年から続いた長い会社生活にピリオドを打とうとした直前であったので絶好のタイミングであった。

ボランティアの活動であるから、単に必要事項を記入して申し込めば“採用”されると思ったが、東博のホームページで募集要項を確認すると、「ボランティアの応募の動機」と「ボランティアとしてやりたいこと」をそれぞれ800字以内にまとめて提出せよとのことであった。久しぶりに入学試験を受けるような気持ちで「答案」を提出したところ、めでたく採用になった次第である。「めでたく」というのは、150名採用予定(実際には156名採用)に対して応募者は約700名にのぼり、数名の試験官による厳正な採点の結果だということを後になって知ったからだ。

 ボランティアとしての“義務”は月2日以上、基本活動日として“勤務”することである。報酬、交通費、食事代等の金銭的な支給はないものの、金銭では評価できない知的な満足、こころの安らぎ、ボランティア仲間との楽しい交流が得られることでボランティア活動を満喫しているというのが現状である。

当初、任期は2年だったが、今年の4月に継続希望者は1年延長され、現在3年目となっている。

ボランティア活動の内容

 ボランティアといえば、まず福祉に関するボランティアを思い浮かぶが、東博のボランティアは「文化ボランティア」として見られている。「文化ボランティア」という言葉は、河合隼雄京大名誉教授が平成14年1月、文化庁長官就任の会見で語ったことから急速に広まり、文化芸術を自ら親しむとともに、他人がそれを親しむのに役立てたり、お手伝いするボランティア活動を指すようである。

東博のボランティアは正式には「生涯学習ボランティア」といい、その活動は、現在、大きく分けて二つ。一つは、館から依頼されて行なう活動で、館が主催する講演会、列品解説(ギャラリートーク)、ワークショップ等の運営補助、作品データの入力・展示品の解説シートの作成等の資料整理である。二つ目は、館と協議し了承をえたうえで実施するボランティアの自主企画活動である。自主企画のグループも続々立ちあげられ、いまでは10を超えるグループが活動中である。私は、このうち「陶磁エリアガイド」「お茶会」「法隆寺宝物館ガイド」「庭園茶室ガイド」などに参加している。

  

来館者との懸け橋としての楽しみ

私は、“東博ボランティアに三楽あり”と思っている。第1は、東博と来館者との懸け橋・仲介役としての楽しみである。それは、お客様と一緒に作品を愉しみ、対話を通じ、新しいものの見方を教わる楽しみでもある。美術の専門家でないボランティアがガイドをする際の基本は、難しい専門用語は避けて、東博の楽しさを知っていただくヒントを提供することではないだろうか。お客様の質問に答えたり、茶会での解説やガイドを終えた後、参加された方からお礼や感謝の言葉を掛けられことも多くなり、ボランティア冥利に尽きるときでもある。

私が関係しているいろいろな集会時に、東博でボランティアをしていることを伝えると、東博を案内するよう依頼されることが多く、積極的に応えてきた。これまでに学生時代の同窓会・同期会、会社時代の各種のグループ、定年後の関係しているグループの方々に対して個人的にガイドを重ねてきた。

 ガイドの後は、決まって上野界隈での“懇親会”となるが、その際、参加者の感想を求めると、「小学生のときに強制的に見学させられ、悪い印象をもち続けていたが改めて見直した」「これほど名品が常時展示されているとは思わなかった」「いままで敷居が高く敬遠していたが、友人がボランティアをしていることで、急に親しみを感じるようになった」「特別展に来ても疲れてしまい、東洋館や法隆寺宝物館までは足を伸ばせなかった」等々・・・。

そのとき私は「東博の良さがご理解いただけましたら、何度でもお越しください。次に来るときには、家族、友人、知人同伴でどうぞ。子供さん、お孫さんをご案内すれば、お父さんとして、おじいさんとしての権威が発揮できますよ。65歳以上の人であれば、東博は終日無料で楽しめるところなのです。」と話している。

 

楽しみは ガイドする時 お客さまの 満ちたる顔に 巡り会うとき

多くの美術品に出会える楽しみ

第二は、常に多くの美術品に接することができる楽しみである。

とくに東博の楽しみは、収蔵品が膨大なため、何回訪れても毎回新鮮なもの(美術品)に出会えること。また、講演会、列品解説、特別展解説会等に参加し、深く広く勉強できることも楽しみの一つである。

東博の所蔵品は、10万件を超え、そのうち国宝が91件、重要文化財が618件、さらに寺院または個人の寄託で名品・優品が展示されることも多い。

この9月から、本館のリニューアルで展示方法、照明も一新され、楽しみが増えた。平常陳列といっても、本館、東洋館、法隆寺宝物館の分野ごとに展示替えが行われている。

 現在、平成館では特別展「中国国宝展」(11月28日まで)が開催中であるが、東洋館第8室も見逃してはならない。そこでは、年に一度の名品撰「中国書画精華」(10月5日〜11月28日、絵画は前期(10月5日〜31日)と後期(11月2日〜28日)で展示替え)が開かれている。特に、前期の宋時代の絵画は圧巻である。梁楷筆「雪景山水図」(国宝)、「出山釈迦図」(重文)と伝梁楷筆「雪景山水図」(重文)が東博では初めて三幅揃いで展示されている。李白吟行図(重文)、六祖截竹図(重文)も並んでいてなんとも贅沢な展示である。

そればかりではなく、国宝の中国書画が、「紅白芙蓉図」李迪筆、十六羅漢図<第5〜8尊者>(京都・清凉寺蔵)、瀟湘臥遊図巻 李氏筆、碣石調幽蘭第五、印可状(流れ圜悟) 圜悟克勤筆、禅院額字「栴檀林」張即之筆(東福寺蔵)など勢揃いしている。

  これほどの名品が、平常展としてみることができる。しかも、きわめて静かな落ち着いた雰囲気の中で・・・。東博でなければできないことである。

 

楽しみは あまた美術の 名品に 訪い来る毎に 触れ会えるとき

 

ボランティア仲間との交流・触れ合い

三番目は、ボランティア仲間との楽しい交流、触れ合いの楽しみである。

館としてもボランティアに対して、自発性・社会貢献性を重視した活動を推奨し、ボランティアがガイドをすることに前向きに取り組んでいる。そのためにグループが続々と誕生した。ガイドをしたり、茶会を企画するには、打合せとか勉強会を開くことになる。自主的に行われた勉強会・研修会で配布された資料は、量も多いがその質も高く私の貴重な“資産”になっている。

私の所属する茶会、陶磁、庭園茶室、法隆寺宝物館などいずれのグループも、意欲的・熱心なボランティアが多く、その交流、触れ合いから受ける多くの刺激は、永い会社生活では得られなかった新鮮なもので、これまた大きな楽しみでもある。

東博のボランティアは美術に関心ある人の集まりだけに、美術に関しての話は直ちにまとまる。誰ともなしに、東博以外の美術館に行ってみようという話が出たのを契機に、「美術遠足」などという全くフリーな集まりも誕生している。東京近郊の青梅の玉堂美術館、櫛かんざし美術館、吉川英治記念館、横浜の三溪園、鎌倉の建長寺・円覚寺・東慶寺などの寺院巡り、さらに足を伸ばして熱海のMOA美術館、箱根美術館、強羅公園の白雲洞、小田原の松永記念館なども見学してきた。その際、参加者が“専門分野”について、それぞれが解説するので、相互研鑽の機会でもある。美食家を自認する人も多く、会食の場所、メニューなど候補が続出するが決まるのも早い。会食、休憩の際は当然のこと、往復の車内でも、美術に関する豊富な話題に話もはずみ尽きることはない。

 

 楽しみは 同じ心の ボランティアと 名品につき 語り合うとき

 

心を豊かにするスポット“東博”

 「美術館は建物があり展示があるだけでいいというものではない。それだけだったら、美術品の陳列庫にすぎない。そこに生命を吹き込むのは人間(ボランティア)である。優れた建築空間と優れた展示方法を生かすための、人びとの息吹がなくてはならない。(ボランティアの)熱く、やわらかな、そして賢い心が満ちてこそ、美術館が生きはじめる。」(注:「美術館ボランティア 高田宏」(2001.10.27日経)に、私が括弧内を挿入した。)

  「もの」の豊かさから「こころ」の豊かさに関心が高まっている。「こころ」を豊かにするものは、文化・芸術である。感動し素晴らしいと心を揺り動かす機会が最も多いスポットが「東博」ではないかと感じるこの頃である。

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「柳緑花紅」を書き終えて
【メルマガIDN 第62号 2004年11月 1日発行】

執筆の契機

 今年の4月上旬、編集を担当されている生部さんからメールをいただき、「メルマガIDN」へ連載執筆の依頼がありました。テーマは自由で、字数制限はないとのことでしたから、なんとかなるだろうと思って気楽に引き受けることにしました。これから1年かけて、陶芸、絵画(日本画・洋画)、茶道、建築、音楽、和歌、美術館等を順次とりあげてゆこうと考えていたたからです。

ここで私は重大な思い違いをしていました。月1回の発行と思い込んでいたのです。ところが、「メルマガIDN」は、毎月1日と15日と2回発行ということが判りましたが後の祭で、この半年は、月2回の原稿締め切りに追われることになった次第です。

私にとって、毎月2回異なる分野について書くというのは、その準備が重荷です。そこで、テーマも一転させて、現在ボランティア活動をしている“東博”(東京国立博物館)に関係した事項に絞ることにしました。字数は、A4版2〜3枚程度を目安とし、関連した写真を必ず数枚挿入することで、5月1日付の第50号から「柳緑花紅」の“東博シリーズ”がよちよちスタートを切ったわけです。
(写真:雨の中特別展へ向かう人々)
                                   

柳緑花紅」とは?

連載に際し、朝日新聞のコラム「天声人語」のような洒落た題名がないものかと考えているうちに、ふと思い付いたのがこの「柳緑花紅」です。

これを、なんと読んだらよいのかと尋ねられますが、「りゅうりょく・かこう」とも「柳は緑、花は紅」とも読みます。『広辞苑』(新村出編、 岩波書店)では、春の美しい景色を形容する言葉であると同時に、物が自然のままで少しも人工が加えられていないことの例えとして、禅宗で悟りの心境を言い表す句でもあるとされています。

 大学に入学した昭和35年、最初の夏休みに、私は郷里の信州佐久にある曹洞宗の古刹・洞源山貞祥寺で参禅をしました。その際、沢木興道禅師から「柳盤み土梨、花は倶連奈井、妄想する古と奈か連」(柳は緑、花は紅、妄想すること莫れ)の書をいただきました。禅宗の高僧の書で、しかも深い意味を秘めた言葉ですから、表装して大切に持っていますが、じつは、その冒頭の部分を引用させていただいたわけです。

この言葉の源は、11世紀の中国宋代の文人・蘇軾(蘇東坡)の詠じた詩「柳は緑、花は紅、真面目」に由来するようです。物事が自然のままに、人の手を加えられていないことの例えで、柳は緑色をなすように、花は紅色に咲くように、この世のものは種々様々に異なっており、それぞれに自然の理が備わっている。とても哲学的で、四文字のなかに含蓄があり、心に深く感じる言葉でもあります。
 板画家の棟方志功もこの言葉を大変好まれ「
柳緑花紅頌」という名作を残しています

 ちなみに「妄想すること莫れ」とは「莫妄想(まくもうそう)」、中国唐代の禅僧・無業禅師(760〜821)のことばで、それは「去のことは、気にせず、忘れること。そして未来のことは、なるようにしかならない。余計なことを考えず、現在なすべきことをしっかりとすること」という意味で、これも私の好きな禅語でもあります。

 

執筆は自分の勉強

 取り上げたテーマは、東博に関するものでしたが、唯一、8月1日付第56号「夏日休話 2題」のみが例外でした。今年の夏は猛暑だったので、ただ単に涼しい話題に替えてみようと脱線したわけです。

東博の名品については、分野ごとの専門家による多数の書物・論文があります。したがって、収蔵品に関する解説には触れないようにして、ボランティア活動を通じて知り得た東博の魅力をいくつか取り上げたつもりです。

専門的な言葉は避けて、平易で判り易い表現にしようとしましたが、どうしても使わなければならない難解・難読の作品名を表記するのには、パソコンと苦戦しなければなりませんでした。

講演とは異なり、文字で表現するとなると曖昧なことは許されませんので、不明な点は文献資料で調べたり、東博の関係者、ボランティア仲間で詳しい人に確認したこともしばしばでした。その結果、私自身の勉強になったことは事実です。

9月15日付の第60号の「四季を通じて楽しめる“東博”の草木(2)」の時には、原稿を送ってから、そのコピーを手に東博に行きました。電車の中で読み返してみると自分ながら不適切で気になる表現が何ヶ所も出てきました。さらに記憶が曖昧だったため、ぼかした表現で逃げていた部分を、東博でその道に詳しい方に偶然出会い事実を正確に確認することができました。そうなると文章を修正したいという気持ちが込み上げてきて、編集の生部さんに無理をお願いして、一旦提出した原稿を大幅に修正したものと差し替えていただいた次第です。

読者からの反響

 最初の原稿「ボランティアによる応挙館での茶会」を提出し、ホットすると同時に、果たして読んでいただけるだろうかと不安を感じていました。「メルマガIDN」が発行されて間もない5月4日、“読者”からの最初の反響がありました。なんと、それは奈良原理事長からのメールでした。

奈良原理事長は、謡曲の会で所沢の柳瀬荘(注)に年に数回訪れていたとのことで、そこにあった「春草廬」が現在東博の庭園に移築されていることが判って驚かれたようでした。さらに奈良原理事長の上司が松永耳庵のご子息であったとのことで、機会をみて耳庵に関するエピソードを伺いたいと思っているところです。

 回を重ねるうちに、口コミで読者が増えて「毎号楽しみにしている。次は何が出てくるか楽しみだ」「東京国立博物館が身近になった」「作品以外の東博のすばらしさが判った」「これまで何回行っても気がつかないことを教えられた」「東博は奥深い。東博の良さを再認識した」などの感想が寄せられるようになりました。

 写真は、私がデジカメで撮ったもので、もっと多く入れてほしいとの要望もありましたが、編集の都合のより毎回数枚を挿入していただきました。

この連載エッセイ「柳緑花紅」と平行して、私がボランティア活動を始めてから東博で撮り続けてきたデジカメの写真を基にして、 “My Museum 東京国立博物館”として『東博の四季…その美しい建物と樹木…』というCD写真集を作ってみました。まだ試作の段階ですが、さらに拡充するつもりです。

皆さんに感謝・感謝・感謝

 当初の予定通り、東博シリーズとしての「柳緑花紅」を書き終えることになりましたが、思いがけずこうした機会を与えていただきましたIDNの奈良原理事長と編集担当の生部さんに感謝申しあげます。生部さんには、毎回、文章と写真との調整をしていただいたばかりか、バックナンバーの掲載等についてまで細かいご配慮いただき本当に頭の下がる思いです。

また、東博の関係者で「生き字引」「樹木の達人」といわれる方々から、教えていただいたこととも数多く、また東博のボランティアの“専門家”の皆さんからも、参考になる資料を見せていただいたり、有益なヒントも提供いただきました。とくに自主企画グループでの勉強会の資料は大変役立ちました。ボランティアの皆様にも感謝、感謝の気持です。

さらに、“熱心な読者”からの感想とか、折に触れて寄せられたひとことが、執筆継続の励みにもなり、責任の重大さを感じるところとなりました。

半年にわたりご愛読いただきました皆様に改めて感謝申しあげます。

 

(注)柳瀬荘と春草廬

「柳瀬荘」は埼玉県所沢市にある松永安左エ門(耳庵・1875〜1971)の旧別荘で、当時は数奇屋・長屋門・土蔵・観音堂も配置されていました。

敷地面積は17,235平方メートルで、昭和23年(1948)3月、東博に寄贈されました。柳窪(現在の東京都東久留米市)の農家を買い取り、現在地に移築したものが「黄林閣」で、江戸時代・天保期の民家の特色をよく示すものとして重要文化財に指定されています。書院造りの「斜月亭」(近衛文麿公の命名)と茶室の「久木庵」などが残されています。東博庭園にある茶室「春草廬」は、もとはこの柳瀬山荘にあったものです。

「春草廬」は江戸時代、河村瑞賢(1618〜1699)が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、その後大阪へ、さらに原三渓(1863〜1939)によって横浜の三渓園に移され、昭和12年(1937)松永耳庵の柳瀬荘内に移築されました。昭和23年に柳瀬荘が東博に寄贈され、昭和34年には春草廬が現在の位置に移築さました。入母屋の妻に掲げられている「春草廬」の扁額は、能書家として知られる曼殊院良尚法親王(1622〜1693)の筆で、三渓が耳庵に贈ったものといわれています。

 (写真:柳瀬荘・黄林閣、黄林閣・耳庵、沢木興道の書)

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