大江戸こぼればなし
 
飯塚 渉
(賛助会員 アドバイザー第20期生)
【71号〜84号 
050315〜051001
  



■連載をはじめるにあたって
【71号 050315】

 昨年のいつ頃だったか、連載寄稿を求める微かな気配を感じたことがあった。その後、夏の終わり頃に、「名乗りを上げるタイミングです。どうですか?」と言われたが、その時は身辺落ち着かず「今はご容赦願いたい。いずれ落ち着いてから書く方向で準備します。翌年3月頃まで待ってください。」とパスさせていただいた。 後で考えればこれは辞退でなくて先送りにほかならず、以来、大型債務(?)を背負う身となった。 今年になってから、別の或る事を打診された。これは自分の柄でもないし、前からの債務履行が四六時中頭にこびりついていて更に丁度プライベートで面倒な役回りがヤマ場に掛かる事情もあって、「とても新しい依頼にはお応えできません。先の債務返済(連載準備)に集中させてください」と、お断りしている。 情勢は益々多重債務(?)へ傾斜して、先送りしていた最初の約束も着手を確約する方向へ追い込まれ日々自分の首が絞まってゆく悪夢のようなデフレ・スパイラルに陥った。

 

 二つの債務のうちの一つくらいは世の先例に倣って「塩漬け」扱いにしてもらうとしても、両方とも「回収不能」にしたのではモラルハザードの誹りを免れず、「破綻懸念先」に仕分けられて「貸し剥がし」や「再生機構送り」の事態になっても困る。 なによりも自分の「男が廃る」。この際往生ぎわよく性根を据えて、債務返済に取り組む覚悟を固めるに至りました。

 IDNメルマガは、広報と教養記事と投稿を基本に構成されているから、読者の方にはこの連載も投稿と受け止められるのは致し方ないが、今回の場合は、「投稿」という語感にこもる意欲的、積極的イメージとは程遠い先送り債務の返済であり、「意地と(ヤセ)我慢の塊り」にすぎないことを前記の経緯と併せて白状しておきます。 

 

 なにがしかの延滞利息も付くのでしょうが、或る主題のもとに一定期間続けられるネタのストックがそうそう有るわけではなく上手く書く自信は尚更おぼつかない。そこでこの数年ヒマさえあれば濫読してきた江戸(時代)を舞台とする時代小説や江戸の逸話、当時を理解するために調べた関連資料など有り合わせの素材をネタに、江戸の面白さや人々の人情、和の風情などをエンピツ舐め舐め書いてみることにしました。

 

 もとより、その方面へ専門的・学究的に迫った訳ではないし、歴史(日本史)観で読んだのでもなく、個人的なエンターテインメントとしての読み漁りです。ご存知のとおり「時代小説」は「歴史小説」でも「歴史書」でもないから、時代考証の正確性やディテールの精度は不十分かもしれません。 その代わりに、階級社会の中層以下で営まれた江戸市井の日常や人々の生き方を通して、現代に失われてしまった日本の、日本人の、規範や価値観、超アナログ時代の人間的な味わいやぬくもりが行間から感じ取れます。 面白さのままに時代小説に引き込まれ読むうちにいつの間にか傍証調べにも手が広がり、江戸の地理や年表、社会・経済システムへの理解も少しずつ深まると一層面白くなってさらに嵌ってゆく。 名のある作家の書くものはストーリーと共に流石に考証も綿密、達者な筆致で江戸の空気、佇まいや風景、人々の息遣いと体臭まで描かれ、嘆息とともに「いいなあ!」と呟き、「・・・・・」と頷く。 それらの作品からサワリを引用したり出典も紹介しますが、それで江戸もの時代小説ファンが増えればそれもまた楽しいことです。 引用しても、ここではヨコ書きで、頻繁な改行も限られ味のある漢字(旧字・本字など)にルビを振る手法も無理、原作の含蓄には及ばないとは思いますが・・・。

 

 最近は静かな時代小説ブームらしい。 古本屋でも時代小説は一般本よりも高値で買い取られ売値も少し高く設定されているようだ。TVの時代劇はむしろ衰退傾向だが読み物の世界では古くからの作者・作品の人気は根強く、中堅作家の実力向上や新進の台頭も著しい。読んで面白い時代小説は確実に増えています。 その気があれば古本屋の百円コーナーでも見つかります。Web上でもプロ、アマ多くの方が江戸(時代)や時代小説に関する薀蓄を傾けています。

 

 民主主義と科学、無いものはない暖衣飽食と便利・重宝社会しか知らない若い世代には、万事「人間力」が全てであった江戸時代は理解を超える世界なのかもしれないが、シニアの方々にはあの時代の遺伝子(例えば尺貫法が分かる、自然律・生活律を弁えている、武士道などを知っているetc)も埋蔵されていて、無い無い尽くし・欠乏時代の原経験も刻まれているから、江戸時代に思いを馳せてイメージできる感性と想像力があります。 そうした方々にとっては江戸の香りがメモリーを起動してくれて、セピア色の古写真を見つけた時のように心を揺らし、癒される部分があると思います。 若い人に伝えようとしても難しい。 まずはご自身で一人静かに楽しんでいただければ幸いです。 江戸を逍遥するクラシック・ツアー、題して「大江戸こぼればなし」、ご一緒に出掛けましょう。


■連載第1回:第一章 江戸の名物−その1 武士− 【72号 050401】

 家康が江戸に入城した天正十八年(1590年)から、十五代将軍慶喜が大政奉還した慶応三年(1867年)まで二百七十余年間のうち、政治経済の安定と成熟、庶民の台頭や江戸文化の発達・爛熟を見た江戸中期(五代綱吉〜十二代家慶、元禄―1688年〜文政―1829年まで)が、もっとも江戸(時代)らしさ、その良さ、が横溢し輝いていた。 江戸もの時代小説の題材や設定もこの頃に依拠するものが多い。江戸市井が舞台の時代小説に登場する主役・主要人物の殆どは、士農工商のうちの中・下級武士、浪人、百姓、職人、商人、様々な女達、雑多な職種の男衆、遊び人、やくざ、悪党など社会的には中の下以下の人々である。 彼等が生きた江戸時代とは、そして江戸というところは、どんな風だったのか、その中で人々が織りなす喜怒哀楽と心の有り様などを辿りながら、さまざまな思いを巡らせ想像力を膨らませると、江戸のイメージが徐々に鮮明になってきます。

 

第一章 江戸の名物

 江戸の世界にどこから入っていくか。まずは上空から全体を概観するような予備知識と大まかなイメージを掴むために、敷居の低い手ごろな入り口から入ってみましょう。江戸っ子が誇らしく自慢げに、「江戸はこういうところだよ」と、端的に表現した『江戸の名物』という能書きがあります。落語のマクラにもよく出てくるのでご存知の方も多いと思います。

 

『武士 かつお(鰹)、 大名小路 広小路、茶店 むらさき 火消し 錦絵。火事に喧嘩に中っ腹。伊勢屋 稲荷に 犬の○○。』

 

 いかにも威勢よいリズミカルな五七調は、諳んじやすい上に語る時には立て板に水の流暢さと歯切れのよさ。江戸っ子好みの啖呵のように仕立てられています。他国にない江戸特有の都市構造や気質など、良くも悪くも江戸文化のエキスがこの中にギッシリ凝縮されていますが、美味い物自慢などは一つも入っていません。「かつお(鰹)」は、気っ風と生きの良さを売りとする江戸っ子のこだわりの主張、「稲荷」も油揚げ寿司ではなく、赤い鳥居の稲荷大明神のことです。  

 では、「江戸名物」のアタマから入っていきましょう。

 

(一)−1、武士

 なぜ、江戸名物に「武士」がノミネートされるのか。それは大都市江戸に於ける武士のウエイトの大きさと考えられる。江戸人口の半分は武士といわれるが、江戸が百万都市だった八代将軍吉宗(1716年〜1745年、享保、元文、寛保、延享)の頃、江戸の市街地に住む(町奉行支配に属する)十五歳以上の男女は、男、38万9918人、女、14万4715人、総計53万4633人とされている。 カウントが微に入りすぎて却って眉唾の気もしますが吉宗の時代は6年ごとに人口調査がなされていたようだし、各種文献でもおおむねこの前後の数字が挙げられている。

 

 このほかに、町奉行支配外の旗本とその家来・家族、僧侶・神職、参勤交代で江戸へ来る大名家(三百藩)の勤番侍達と常駐武士、多数の浪人など、総人口の百万人(米の消費量から推定されたという)から逆算すればその数およそ50万人になる。各種資料を調べても江戸の武士人口は明らかになっていないが、武士は兵力であり江戸は一面において軍事都市であったから公表されなかった、或いは幕府も各藩の武士の数(内情)を把握し切れなかった、などの説もある。当時の日本全体の人口構成比は諸説あるが武士(僧侶等含む)7%〜10%とみられ、約50%を占めた江戸の集中度は桁外れには違いない。

 

 人口のみならず、土地占有率でみた武家地の割合は更に高く、「六割が武家の屋敷地で二割が町家、一割五分が寺で残りの五分が神社」との記録や、幕末の武家地が七割(69%)との説もある。それもその筈で、幕府が与える武家屋敷地について旗本(江戸定住義務)の場合、下級の御家人でも100〜150坪、200〜300石の直参下位クラスで600坪、4000〜6000石で2000坪、上位クラスは2500坪である(寛永二年の規則)。

 各藩大名の江戸屋敷ともなれば上、中、下屋敷と複数を保有、禄高・家格によって数万坪も例外ではなかった。 「江戸切り絵図」で見ても武家地の寡占状況は明白である。大半が長屋住まいの庶民の目に映る武家屋敷構えの豪壮さも、一層 武士階級の存在感を高めたことだろう。

 

 また、武士は職業軍人として武道を修め武器を持つ強い存在のみならず、高い教養と厳格なモラルに沿った生活をする知識階級であったから、身分差だけでなく人間的にも畏敬の念を持たれていたと思われる。 

 さらに重要な点は、多数の武士セクターの存在とその生活、武士階級が行う政治・行政活動が生み出す膨大な消費と雇用など、巨大な経済効果が江戸の繁栄と町民の生活基盤を支えていたことである。

 

 江戸藩であり政府である江戸城(奥向き含む)の維持運営と施政に伴う公的消費、インフラ整備の公共投資、役人個々の消費生活、扶持米の輸送・保管・換金、多量の水陸物流、金融・為替、三百藩の江戸留守居役が湯水のように費やす外交・情報収集工作費、莫大な交際費、隔年の参勤交代・江戸詰めの諸費、武家屋敷の建設・修繕費、労働力調達、特別手当てを受ける勤番武士達の日常出費、私的飲食遊興費等々、相対的に高額なあらゆる需要が発生するのも武士の集積密度が高いからである。

 町人社会で商家の奉公人、職人、出稼ぎ人、小商いなど独身男性が多い構造に加えて、武士=男である上に諸藩の江戸詰め武士達は全て単身赴任であったから、男社会の受け皿となる外食、飲食、娯楽、遊里などサービス産業も著しく発達した。

 

 江戸の経済構造はこの頃から既に今の東京と似た都市型であり、首都に集中する武士の存在が江戸自慢の筆頭なのも頷ける。この頃、生粋の江戸っ子人口は53万人の一割、5万人だった。 江戸っ子の目には武士の存在と「江戸GDP」への貢献度が否が応でも光る、というものである。

 (参考資料)

・「ま・く・ら」 柳家小三治 著 (講談社文庫)

・「江戸十万日全記録」 明田鉄男 編著(雄山閣)

・「旗本」 新見吉治 著 (吉川弘文館)、その他Webサイトから旗本関連情報、

・「やがて貧しき大名行列」 今野信雄 著 ほか (文芸春秋編「江戸こぼれ話」所収より)


■連載第2回:第一章 江戸の名物−その2 大名小路− 【73号 050415】

 順序では「かつお(鰹)」になるところですが、前回の「武士」と関係の深い「」を先に扱ってから次回に「かつお(鰹)」に戻ります。 丁度その頃 “初鰹の旬”になるでしょう。 

 

 家康入城から七年後の慶長十五年(1610年)、既に家康は隠居(大御所)、二代秀忠が西の丸下(今の二重橋付近)から内濠一帯(現皇居外苑)、内濠と外濠に挟まれた地域(現大手町、丸の内、東京駅、日比谷、)、桜田門外周辺にかけて、幕府施設や大名屋敷を集中的に配置した。 特に現皇居外苑と丸の内周辺には、老中(七千坪〜九千坪)、若年寄(三千坪〜四千坪)はじめ譜代大々名たちの広大な屋敷が桃山風の華美を競って建ち並び、そのメインストリート(現在の丸ビル前、国際フォーラム前の道筋)は「大名小路」と呼ばれた。 

 

 後に江戸城本丸、天守閣、二の丸まで焼き尽くした明暦の大火=振袖火事(明暦三年、1657年)で、この大名屋敷群も全て焼失するがまもなく再建され、以後も当主の異動・住み替えや幾度かの焼失・再建を繰り返しながら幕末に至るまで「大名小路」は存続した。 大火で焼失する前の、日本最大巨城・江戸城本丸の威容と五層五階地下一階、高さ57.6メートルの天守閣、その前面に展開する錚々たる譜代大名屋敷群、というロケーションは、江戸っ子にとって実に有り難く頼もしい畏敬の的であり、お膝元に暮らす町民の何よりの安心と自慢の種でもあったことだろう。

 

 幕末期に「江戸切り絵図」が発刊されると「大名小路」は更に全国的に有名になる。 版によって変わるが、江戸を三十前後に区分した色刷りの切り絵図は、携帯にも便利で分かりやすく使いやすかったため江戸の住人に喜ばれたが、諸国から江戸へ往来する人々にも人気を博し「江戸みやげ」として最もよく売れたのが「御曲輪内 大名小路絵図」であった。 情報手段が量、質、速度、方法、全てに亘って乏しく、大半が江戸を見ずに一生を終わった諸国庶民にとってはみやげ話と共に見る江戸切り絵図や錦絵、草双紙などは、徳川幕府の力と、都市の頂点に立ち先端文化を謳歌するお江戸を知る貴重な知識の源泉であったに違いない。

 

 江戸を舞台とする時代小説の地理的設定は、殆どが江戸切り絵図に準拠している。今後この連載でもしばしば引用するので「江戸切り絵図」について簡単に触れておきます。

 弘化三年(1846年)、麹町の家主で荒物屋を兼業する近江屋五平は、店が番町の一方の入り口に有った為に道を尋ねる者が絶えず、商売が“あがったり”になるのを防ぐため自前で地図を作り非常な好評を博したという話がある。 当時の番町は一番町から六番町まであり、これが番号順に並んでいない上に偶数番にはそれぞれ表・裏があり、奇数番には堀端とか土手といった冠称も付けられている複雑さであった。 さらに武家屋敷には、大名・旗本に拘らずTV時代劇で見るような表札は一切無かったから、よそから来た人は、土地の人に道を聞くしか方法がなかったのである。

 

 この、近江屋五平発行の「近五堂」(のち「近吾堂」)の「懐中番町絵図」が大いに好評だったのは、それまで実用的な江戸地図といえば最低たたみ二畳くらいの地図でなければ、個々の武家屋敷の所在は分からなかったのが、ある地域ごとに分割して見やすい図を作ったこと、同時に携帯にも便利になるというアイデアが武家、町人の身分差を越えて広く受け入れられたためという。

このことは番町に限らず江戸市中の面積の約七十パーセントを占めた武家地に共通の事柄であったから、近吾堂では嘉永版(嘉永元年〜嘉永六年、1848年〜1853年)では三十一枚、安政版(安政元年〜安政六年、1854年〜1859年)では三十八枚に江戸を分割して売り出した。 

近吾堂の創始に遅れること三年後の嘉永二年(1849年)、ところも同じ麹町六丁目の「近鱗堂

尾張屋清七」も色彩豊かな切り絵図を売り出す。両者とも、発刊後随時改正再販を重ねながらこの二つの版元の絵図は共に良く売れて、今でも好事家には根強い人気があるようだ。

 

 慶応元年改正再版の、近隣堂 尾張屋清七版「御曲輪内 大名小路絵図」を見てみよう。

一ツ橋御門から、時計回りに神田橋、常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、日比谷、桜田の各御門のある外堀と、江戸城坂下御門、内桜田御門、大手御門、平川御門の内堀に囲まれた一帯には、四十三の大名屋敷、北町・南町両奉行所、勘定奉行役宅、定火消し役宅、歩兵屯所など、十一の幕府施設を見ることが出来る。内堀、外堀の中間を「大名小路」が南北に縦貫し、碁盤目状道路の要所々々に五十箇所近い辻番所が置かれている。 大名屋敷には当主の名前が官名付(松平周防守、細川越中守など)で記入され書かれた名前の向きで屋敷門の向きが分かる。識別に役立つマークも付され、上屋敷には各家の家紋、中屋敷には■印、老中職には丸の中に「老」、若年寄は丸の中に「若」と記されている。 数えれば老中が六人、若年寄も六人と幕閣の人数、顔ぶれまで分かる仕組みになっている。

 

 「大名小路絵図」から想像するに、各屋敷の要害堅固な門構えと分厚い練塀、邸内の樹木で遮断されたこの大名小路は、夜ともなれば鼻をつままれても分からぬほど漆黒の闇に包まれていたと思われる。 しかし、あまりにも畏れ多かったのか、大名屋敷専門に荒らし回ったという“ねずみ小僧”がこの界隈へ出没したという話は、時代小説でもまだお目にかかったことがない。 

 

(参考資料)・「江戸切絵図散歩」 新人物往来社、(解説)佐々悦久 (現況地図)野村秀夫

・Webより、フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』

・Webより、「江戸の大名屋敷」


■連載第3回:第一章 江戸の名物−その3 かつお(鰹)−【74号 050501】

 黒潮の魚「かつお(鰹)」の本場といえば薩摩の枕崎や四国・土佐が通り相場になっている。にもかかわらず、江戸名物の上位に君臨するのは、江戸っ子特有の気っ風と心意気の全てが、初夏の風物詩「初鰹」への特異なこだわり方(価値観)に反映しているから、と言えるだろう。

 当時、「初物を食うと七十五日長生きする」という諺があって、中でも初物の王者「初鰹」はその十倍の七百五十日(なんと二年!)長生きすると言われていたようだ。 この俗信に何事にも「粋」を標榜して宵越しの銭を持たない江戸っ子の心意気が重なると、「女房、娘を質においても・・」となるものらしい。春たけなわからやがて夏に向おうとする江戸市中に爽やかな薫風が通り抜ける季節感、それ自体も闊達な江戸っ子の心をたまらなく躍らせていたのかもしれない。

 

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(山口素堂)。この句を呪文のように唱えながら、鰹売りが来るのを今か今かと待ち焦がれ、売り声を聞けば競って なけなしの銭も惜しまず買ったようだ。魚河岸近くの橋の上から初鰹の入荷を一晩中見張っていた、という話もあるほど「熱く」なった。 

 「山の手は 食わず 下町 まだ聞かず」。初鰹は下町に先に入るが、ホトトギスは山の手から先に鳴き始めて里へ降りていく。だから、下町で先を争って初鰹を食べている頃には(下町では)まだホトトギスは鳴いていない。かたやホトギス鳴く山の手の武家は「締り」がいいので、解禁日前の鰹なんかに大枚払う馬鹿らしさに、まだ食わない。その対比を揶揄した川柳です。

 

 それにしても気になるのが初鰹の値段。初鰹一本が一両二分という記録が残っているが、高いほうの話では、文化九年(1812年)、魚河岸に初入荷した鰹が十七本。 うち六本は将軍家のお買い上げ、三本は料亭「八百膳」が購入。かくして残りの八本が魚屋に渡り、そのうち一本を歌舞伎の中村歌右衛門が三両で買い、大部屋の役者に振舞った、と蜀山人が書いているそうだ。お金の相場が一両=四分=銀六十匁=銭四千文で、米一升およそ百文、職人の手間が一日五百文、九尺×二間の長屋の家賃が月一千文、そば(もり、かけ)が十六文の物価からアバウトで現在価値に換算すると一両二分はほぼ二十万円、三両といえば四十万円になる。 

 

 ハシリを過ぎれば急激に安くなるのだが初鰹のあまりの高騰ぶりに幕府も何度となく規制をしたそうだ。しかし、全く効果はなかったという。逆らってでも初物に執着する、安い鰹ではシャレにもならない、「神もお上もあるもんか、食いてえもんは食いてえや」と、啖呵が聞こえてくるような話です。銭に糸目をつけず初物にこだわり、武士への反骨も混じる江戸っ子の意地と心意気の風潮こそが江戸の名物たる所以かもしれない。「初鰹 一両までは 買う気なり」(其角)なのである。

 

 生食して旨い鰹は相模灘以東のものとされ、江戸の初鰹は鎌倉、小田原、房州などから「押送船」と呼ぶ八丁艪級の快速船でわっせ、わっせと魚河岸に運び込まれる。活きの良さが全ての初鰹の食べ方は当然刺身であるが、薬味は芥子(からし)で食べたものらしい。仏頂面の女房に「その顔で 芥子をかけと 亭主言い」。また、「初鰹 銭と芥子で 二度落涙」、「春の末 銭へ芥子をつけて食い」など、見栄と痩せ我慢に徹する庶民の様子もリアルに伝わってきます。

 

 「彦次郎が、生きのよい鰹の半身を持って梅安宅へあらわれたのは、それから三日後の午後であった。軒下へ立った彦次郎の頬のあたりを掠めて燕が一羽。矢のように空へ舞い上がって行く。外の治療から帰っていた梅安は、双肌ぬぎで鍼の手入れをし、上方からもどった小杉十五郎は台所の拭き掃除をしていた。(中略) 藤枝梅安が台所の小杉十五郎へ、『小杉さん、こっちへおいでなさい。まだ明るいが、いっぱいやりましょう。ちょうど、いい肴が入ったことだし・・・・』、『いま、まいる』と、台所で十五郎がこたえる。彦次郎が鰹の入った桶を抱えて立ち上がり、『梅安さん、まず、刺身にしようね?』、『むろんだ』、『それから夜になって、こいつ(鰹)の肩の肉を掻き取り、細かにして、鰹飯にしよう』、 『それはいいなあ。よく湯がいて、よく冷まして、布巾に包んで、ていねいに揉みほぐさなくてはいけない』、『わかっているとも』、『薬味は葱だ』、『飯へかける汁(つゆ)は濃い目がいいね』、『ことに仕掛けがすんだ後には、ね。 ふ、ふふ・・・』」(「鰹飯」より)

  

 生きの良い鰹は、刺身包丁を引きながら、身肉の年輪が感じられるくらい引き締まった手応えがあり、切り口が鋭く立つ。腹側の身は皮付きのままにし、一片の中央に浅く飾り包丁を入れた「銀皮造り」が私の好みですが、鰹刺しには木の芽がなければ絶対承知できない。この頃の飲食店ではいい仕事になかなかお目に掛かれないが、若い頃には、腕の良い親方や板前と対面して飲める安い居酒屋がいくらでもあって鰹の季節にはよくこれを注文した。というより、鰹を頼むと向こうから「皮付き? それとも・・」と聞いてくれた。この時期なら筍のあっさりした煮付けも追加注文したいところだ。

 

 往時の江戸っ子を偲ぶということなら、せめて印半纏でも引っ掛けて、ぐーっとやるのは・・・、

 やっぱり初夏に味が冴えるビールになってしまいますが・・・。う〜む、たまらんなあ!!

 

(参考資料)

・ 対談「江戸のおいしさ」 竹内 誠vs杉浦日向子 (「本の窓」(小学館)2002年11月号所収)

・「娯楽の江戸 江戸の食生活」 三田村鳶魚 著 朝倉治彦 編 (中公文庫)

・「仕掛け人・藤枝梅安 『梅安最合傘』―「鰹飯」」 池波正太郎 著 (講談社文庫)

・Webより http://www.tokyochuo.net/sightseeing/uogashi/2004/09/ 

・ Webより 柳屋本店ホームページ「おもしろ話」

・ Webより 老舗の知恵袋「大江戸広辞苑」


■連載第4回:第一章 江戸の名物−その4 広小路(ひろこうじ)
【75号 050515】

 広小路は語義の上では「幅の広い街路」(広辞苑)というだけで特別な意味はなく、江戸に限らず尾張名古屋ほか各地にもあった。江戸っ子が敢えて江戸名物リストに載せたのは、盛り場としてのスケールと賑わいが本邦随一と確信し、それを擁する大都市江戸を誇らしく自負する気持ちであろう。江戸の広小路ベスト・スリーは、両国広小路、浅草広小路、下谷広小路であり、武家・町人、旅人、老若男女を問わず夥しい人出で殷賑をきわめた盛り場であった。

 

 三大広小路が作られたのは、明暦3年(1657年)の振袖火事で十万人超の犠牲者と共に江戸の大半を焼失したあとの復興都市計画の中で各地に火除け地を設けたことに始まる。最も象徴的なのが両国橋西詰めに出来た両国広小路である。 かつて、大川(隅田川)の千住大橋より下流には防衛上の理由から橋は一つも無く、明暦大火の際、火を逃れる市民が大川に阻まれて浅草方面を目指そうとしたが、伝馬町の囚獄で解き放たれた囚人を脱走囚と思った見附役人が神田川に架かる浅草御門を閉鎖、群集は行き場を失い空前の死者を出す惨禍となった。 

 

 二年後の万治二年(1659年)両国橋が架かりそれまで府外とされていた本所・深川など江東地区も江戸府内に編入。通行の要衝となった両国橋界隈は東詰め、西詰めの道路が火除け地として大きく拡張され、恒久建築物は禁じられたが仮設の露天、屋台、茶店、小屋掛け興行などの商売用地に使わせるようになった。 俗に「両国橋 一日参千両」、朝の青物市で千両、昼の広小路の見世物で千両、夜は隅田川の納涼の賑わいで千両の「あがり」があったといわれる。

 特に、神田・日本橋に近く、柳橋・鳥越・蔵前・浅草・千住街道への道筋に当たる橋の西詰め「両国広小路」は江戸随一の盛り場となる。当時の両国橋は今より約五十間(90m)下流(薬研堀寄り)、現在の東日本橋二丁目あたりに架かっていた。

 

 「半七は何を考えたか、すぐに菊村の店を出て、現代の浅草公園六区を更に不秩序に、更に幾倍も混雑させたような両国の広小路へ向かった。もう、かれこれ昼頃で、広小路の芝居や寄席も、向う両国の見世物小屋も、これからそろそろ囃し立てようとする時刻であった。莚を垂れた小屋のまえには、弱々しい冬の日がほこりにまみれた絵看板を白っぽく照らして、色の褪めた幟が寒い川風にふるえていた。 列び茶屋のかどの柳が骨ばかりに痩せているのも今年の冬が日ごとに暮れてゆく暗い霜枯れの心地を見せていた。それでも場所柄だけにどこからか寄せて来る人の波は次第に大きくなって来るらしい。その混雑の中をくぐりぬけて半七は列び茶屋の一軒に入った。

 『どうだい、相変わらず繁昌かね』、『親分、いらっしゃい』と、色の白い娘がすぐに茶を汲んで来た。『おい、姐さん。早速だが少し聞きてえことがあるんだ。あの小屋に出ている春風小柳という女の軽業師、あいつの亭主はなんといったっけね』 (「石燈籠」より)

 

 浅草広小路は大川端の花川戸から田原町に通ずる雷門前の通りである。浅草の「核」は金竜山浅草寺。12代家慶治世時代(天保八年〜嘉永六年、1837年〜1853年)の様子が時代小説の中に描かれている。「浅草は江戸随一の繁華境である。一年中参詣人の行列が絶えたことがない。一日に雷神門をくぐる人数は三万人といわれている。十二の末寺が東西に並び、その廂下に雑多な店が櫛の歯のように並んでいた(=仲見世)。数珠、太鼓、仮面、錦絵、餅、銘茶・・・。列び茶屋が続き・・・(略)。仁王門の宏麗が雷神門と相映え広い境内の要になっていた。

 

 境内には絵馬堂、浄水所、輪堂、五重塔、神厩、山王祠などがそれぞれ参詣人を招き寄せ、その参詣人に物売りが寄り添うて怪しげな土産物をしつこく売りつける。一寸八分の観音勢至を安置する本堂は、焼けるたびに巨大になり、五彩の帷の奥の荘厳さが賽銭をはずませる。線香の煙と賽銭を投げる音が夜明けから日の暮れるまで絶えることはないのであった。本堂の左が鐘楼と随身門、右が淡島神社の三社十社の両殿、念仏堂、涅槃堂、その他。奥山というのは淡島神社の奥の一帯を総称する。矢場が最も多い。(略)。ありとあらゆる見世物がここには集まっていた。(略)」 (「大凶祈願より」)こんな浅草寺の門前往還が浅草広小路である。

 

 下谷広小路は、南へ上野新黒門町(現松坂屋南端向側)で突き当たり右へ折れると湯島天神下、西に不忍池をのぞみ北は黒門を経て上野山内。北東方向の山下(現上野駅敷地)と共に東叡山寛永寺の門前町である。様々な料理屋や商舗や仮小屋の見世物、茶店などもたち並び、その賑わいは両国や浅草の盛り場にも劣らぬものがあった。とりわけ賑わうのは花見時だが、山内は将軍霊廟地ゆえに規制も多く、静かな観桜以外は禁じられ夜桜見物も許されなかった。 

 

 広小路から黒門に向かって左手の町家が切れる先に往来を横切る忍川があり、小さな板橋が三本架かっていた。御橋(三橋)である。橋の手前を忍川に沿って左に入る不忍池畔は池之端仲町の裏通り。表通りには種々の高級品を商う店舗が軒を連ねているが、裏側は小体で品の良い料亭や水茶屋などが立ち並んでいた。 弁天堂のある中島や池周辺には出会い茶屋が多く、時代小説の男女の話にもよく登場する。 下谷広小路には、独特の大人の匂いも感じられる。

 

 江戸三大広小路は天下安泰・民生平和の証しであり、都市構造上の特長のみならず新興都市の成長・成熟に不可欠な人気と魅力を高め、人と経済の集積や流入も促したと考えられる。江戸っ子が名物として自慢したい気持ちもよく分かるのである。

 

(参考資料、引用資料)

・Webより  http://www.asa.yanagibashi.com

・Webより http://asakusa-e.com

・半七捕り物帳(一) 所収 「石灯籠」   岡本綺堂 著  光文社文庫

・柴錬捕物帖  岡っ引き どぶ 所収 「大凶祈願」   柴田錬三郎 著  講談社文庫

・鬼平犯科帳(十二) 所収 「二つの顔」、 仝(十三) 所収 「殺しの波紋」 池波正太郎 著  文春文庫

・用心棒日月抄 刺客 所収 「隠れ蓑」 藤沢周平 著  新潮文庫



■連載第5回:第一章 江戸の名物−その5 茶店(=茶屋)−【76号 050601】

 もともとは、旅行者のために宿場間の休息所として茶店ができ、やがて寺社門前などの盛り場にも進出した。当初は文字通り茶を供するだけであったが、次第に主・副食を商う煮売り茶屋、料理茶屋に発展し給仕女を置くようになった。発祥〜進化の過程で茶店・茶屋の区分は曖昧になり、江戸の名物では一括りに「茶屋」としてこの商売の多さと盛況ぶりを喧伝しているのである。
 
 寺社門前や盛り場の茶屋も初期は道端に茶道具一式を並べ、葦簀(よしず)張りの出茶屋であったが後に店を構えるようになりこれを水茶屋と呼んだ。 ここにも給仕女が雇われ、客寄せのため競って美人が置かれる。芝居や錦絵でもお馴染みの笠森お仙は谷中・笠森稲荷の水茶屋の女である。浅草の水茶屋お花、銀杏茶屋のお仙、いね屋の洗い髪お六、仲見世二十軒茶屋の吉野家おゑん、島屋のお金などがその時々の代表美人として観音様以上に渇仰されたというが、近代に例えればかつての喫茶店の人気ウエイトレスか マス・メディアのアイドルというところか。
 
 「・・・新八郎はとにかく、本所方の同心高丸龍平と張り紙の中に書かれていた飛鳥山へ出かけて来たものである。飛鳥山の桜は、およそ五分咲きであった。(略)それでも飛鳥山の花見客はかなりのもので、花の下に陣取って酒を飲む者、弁当を開く者、三味線を弾き、踊る者など、思い思いにこの春を楽しんでいる。無論、茶店もほぼ一杯に客が入っていて、団子や饅頭を買うのにも行列が出来ていた。なかでも、ひときわ長い行列が出来ているのが、『緋桜小町のさくら茶屋です』と高丸龍平が教えた。(略) 高丸龍平の教えたさくら茶屋を新八郎も眺めた。 
 そう大きな茶屋ではない。 座敷といっても十畳ばかりの、それも表側の障子を開け放した吹きさらしに、客が各々、仲間同士、一かたまりになって茶を飲み、団子を食べている。その手前には腰掛け用の縁台がいくつも出ていて、そこにも客があふれていた。茶店の中では何人かの女が、お揃いの赤い前掛けに襷(たすき)という恰好で、忙しく立ち働いている。その中の一人が、高丸龍平をみつけると笑顔で挨拶をした。(略) 龍平がそっと紹介した。『隼 新八郎どのだ』 新八郎へ向いて、改めていった。『先程、お話申しました、お小夜でございます』 『噂に高い緋桜小町か』新八郎が微笑した。『成程、これは評判以上の女ぶりだな(略)』」(「緋桜小町」より)
 
 水茶屋はやがて酒・肴を供する必要に迫られて料理茶屋が出現する。江戸に初めて主食を供する茶屋ができたのは元禄(元年〜十六年、1688年〜1703年)直前、盛んになったのは宝暦年間(元年〜十三年、1751年〜1764年)以後との説もあるが、各種資料を渉猟するとそれ以前からすでに急速な増加が窺われる。幕府は延宝六年(1678年)には早くも、旅宿の妨げにならぬよう茶屋の新設を禁じ、給仕女を一軒に二人、営業時間を日中に限るなど、規制に乗り出している。その後幕末まで、度重なった茶屋規制の主眼は主に風紀上の理由に変ってゆく。
 
 だが違背者は一向に後を絶たず、規制効果が上がらないほど旺盛な需要と供給対応があったことを物語っている。料理茶屋の多くは貸し席的性格を持っていたがそれらを会席茶屋といい、貸し席のみを扱う出合い茶屋、待合茶屋、ほかに特殊なものとして編笠茶屋、引手茶屋(吉原特有の茶屋)、更に芝居茶屋、相撲茶屋、垢離(こり)茶屋などもあった。料理茶屋と料亭・料理屋の棲み分け方や客層、業態、売り物の差異などは前期規制状況と結果で凡そ推定できる。
 
 「今宵もその男は、店の板敷の隅に立膝をして、一人で飲んでいた。湯島天神境内にある料理茶屋小松屋には、土間の脇に四坪ほどの板敷がある。客の大方は座敷に上がるが、参詣人や近所の者がちょいと立ち寄って気軽に飲めるそこは、いつも日暮れ前から混みあっている。(久作親方さん、今日もきてる・・・) 日が暮れて、二階の座敷へ梯子段をせわしく昇り降りして酒肴をはこびながら、おきぬは久作を目のはしにとめていた。(略) さほど遠くない根津門前町に住む銀職人だと、おきぬは朋輩から聞いている。
 
 四十半ばに見える小太りな男で、銭湯帰りの濡れ手拭を洗いざらしの半纏の肩にひょいとひっかけ、雪駄を鳴らして入ってきて、いつも決まって板敷の隅に立膝で座り、よほど豆腐が好きなのだろう、夏のうちは冷やっこ、秋になってからは湯豆腐で、ちびりちびり飲む。女中のおきぬや顔見知りになった客が声をかけても無愛想に合槌をうつ程度で、といっても不機嫌な様子ではなく、他に肴の一品二品を注文して、銚子二本で切りあげ、湯漬けをかっこんで帰ってゆく。 その久作が湯漬けを食いおわり、つま楊枝をくわえたまま立ちあがった。(略)」  (「いぶし銀の雪」より)
 
 茶屋の変遷を辿ると湯茶で休憩という原型のままの茶店と、酒食や座敷の提供、玄人女の存在などに比重を置く茶屋に分れ、更に後者は益々多様化し一部は風俗店化の様相を帯びてゆく。寛政年間(元年〜十二年、1789年〜1801年)の江戸には茶屋が三万軒あったという。 長期出張者(勤番武士)や奉公人、出稼ぎ人、旅人などの単身男性比率が著しく高い江戸固有の市場構造を勘案しても、人口比では途方もない集積度である。(平成13年度東京都全域の(往時の茶屋相当業種合計)飲食店数は32,868と、人口比では江戸の十分の一以下) ゆえに三万軒という数を俄かには信じ難い感もあるが、識者の著した資料からそのまま記述したものである。

(参考資料・引用資料)
・「世界大百科事典(巻14)」 平凡社 (「茶屋」原島陽一、 「茶店」江馬 三枝子) 
・新版「江戸から東京へ(三)」 矢田挿雲 著  中公文庫
・「日本の古典芸能―9 寄席」 加藤秀俊 著  平凡社 
・「はやぶさ新八 御用帳 =江戸の海賊= 『緋桜小町』」 平岩 弓枝 著  講談社文庫
・市井人情小説傑作選「江戸夢あかり」より 『いぶし銀の雪』 佐江 衆一 著  学研M文庫
・「事業所・企業統計調査 平成十三年版」 総務省


■連載第6回:第一章 江戸の名物 〜その6 むらさき(紫)  その7 錦絵〜【77号 050615】

その6 むらさき(紫)

 江戸の名物も ここで初めて美の世界に入って行きます。錦絵や歌舞伎衣装でも分かるとおり、江戸の人々は色についてもなかなかお洒落であった。好まれた色を見ると、どちらかといえば茶系統や灰色系統など渋さの中の微妙な色合いに凝っていたようだ。江戸の流行色のうち茶系では「江戸茶」をはじめ、人気役者の名を冠した「芝翫茶」、「団十郎茶」、「路考茶」があり、灰色系では、「銀鼠(ぎんねず」、「梅鼠」、「深川鼠」、「藍鼠」、「錆鼠」などが知られている。とはいっても、若い女性が好むのはやはり明るい色や華やかな色。そんな色には花や植物など自然にちなんだ名前が多い。「牡丹色」、「撫子色」、「桜色」、「山吹色」、「萌黄色」、「露草色」、「紅梅色」・・・。 
 「和の色」の名前は、どれも雅趣豊かで言葉の味わいを含んでいるのが実に心憎い。
 
 「むらさき(紫)」という色は、日本では、推古天皇・聖徳太子の時代に冠位十二階に合わせて色が定められた時から、最上位の地位を象徴する特別な意味を持つ色(古代紫)であり、連綿として公家文化の中で継承されて来た。そのため「京紫(きょうむらさき)」と呼ばれ高貴な色として一般人は使うことが許されなかったのである。(注:現在の色彩専門資料では、「古代紫」と「京紫」は別色として僅かに色相の異なる見本が示されている) また古くから京紅(きょうべに)があって、「京紫」、「京紅」はともに京都文化を代表する色であった。
 
 八代将軍吉宗(在位:1716年〜1745年)の頃、武蔵野ゆかりのムラサキ草を原料とした紫染めが奨励され、これが「江戸紫」として大いに人気を博し江戸服装文化の代表色のようになるが、「京紫」に対する「偽(にせ)紫」を口実に問題化を逃れたらしく、江戸市民や幕府に「京都対江戸(朝廷対幕府)」の対抗意識もあったのではないか。赤味がかった京紫に対し江戸紫は青味のある色で、「粋」で「いなせ」な『江戸のニューカラー』として非常な評判を呼んで江戸名物となる。 
 
 元禄(1688年〜1703年)から吉宗治世の享保(1716年〜1735年)、元文・寛保(1736年〜1743年)時代にかけては、富裕商人の勃興や庶民の台頭著しく、諸商売が賑わい江戸が目ざましく活性化した頃である。それまで禁制の紫色が、将軍奨励のもと独自に「江戸前の紫」として開禁され、盛んな消費と景気の波に乗る形で流行の先端に登場したのであるから、常に意地と反骨の沈潜する江戸っ子には格好のガス抜きと自慢の種にもなったのだろう。吉宗の胸の内は知る由もないが、プロデューサーとしてもなかなかどうして、隅に置けない人だったのかもしれない。 
 
 それでも紫は、古くからの「曰くつき」であり非常に目立つ派手な色でもある。色の威儀も値段も安かろうはずはなく、衣装としての着こなしも難しかったと思われる。庶民の目に触れる代表格は、やはり、歌舞伎でお馴染みの「助六」が〆ている縮緬(ちりめん)の鉢巻であろう。これが正真正銘の江戸紫である。風呂敷、袱紗(ふくさ)、被り物、それに、しごき、襟巻き、お高祖頭巾など女持ちの小物によく見られるが、この色の着物ともなれば、恐らくその上に羽織や打掛を重ねたものだろう。そうなれば、玄人筋や上級御殿女中など大髷や大胆な髪型に厚塗り、加えて美貌と貫禄を兼備しなければ、衣装に「着負け」してサマになりそうもない。 
(「京紫」、「江戸紫」それぞれの色調と差異、その他「和の色」の名前と色調などは後記URLからWeb上で見られます) 
(参考資料、引用資料)
・  Webより、「友禅ネット」日本の伝統色:紫系統 http://www.yuzen.net/color/color_purple.htm

・  Webより、「江戸の便利帳」【参】〜【七】     http://www.tvz.com/kawara/1-3.htm 

 
その7 錦絵
 
錦絵とも浮世絵ともいうが、「浮世」の意味は「今様(いまよう)」、「現代風」ほどの意味で、「浮世絵」は浮世を描いた絵、即ち「風俗画」として登場した。初期は肉筆画か墨の単色刷り、次いで墨刷りに赤や二〜三色加筆の紅絵などが現れるが、江戸時代の1765年(明暦二年)鈴木春信、狂歌師巨川(きょせん)らが創始した華麗な木版多色刷りの浮世絵版画が錦絵の先駆である。江戸生まれから「東(あずま)錦絵」ともいわれ、浮世絵文化はここから本格的開花期を迎える。
 
 多色刷りには複数回の摺り(刷り)を要しこれが可能になった背景には、摺りに耐えられる高品質紙の普及と多工程に掛かる手間賃金を賄える経済の発展がある。錦絵の人気と共に絵師の輩出と画風の進歩も目ざましく、鈴木春信の死後、人形的絵柄から写実的なものに変化し、北尾重政の写実的美人画や勝川春草のブロマイド的似顔絵が描かれ、さらに喜多川歌麿が繊細・上品で優雅なタッチの美人画(大首絵)を数多く手がけた。寛政七年(1795年)版元蔦屋重三郎が起死回生を狙って東洲斎写楽(の役者絵)を売り出し話題を呼ぶが、特徴を誇張しすぎて売れ行きが振るわず、歌川豊国の「役者舞台姿絵」の絶大な人気に敗退したといわれる。
 
 江戸後期、幕末期には、前記絵師の次世代や弟子に当たる渓斎英泉、葛飾北斎、歌川広重・国貞・国芳などが各得意な分野を継承、活躍する。錦絵(浮世絵)の種類には美人画、役者絵、戯画、名所絵、武者絵、歴史画、玩具絵、相撲絵、鯰(なまず)絵、ほか多種多様なものがあった。 
 江戸へ往来する武士、商人、観光客、旅人達に江戸みやげの定番として良く売れたばかりでなく、膝元でも鑑賞用や贔屓買い、贈答品、蒐集、教育、宣伝用等で多くの需要があり、日本橋界隈に多かった草双紙などを扱う地本問屋(出版・販売兼業書店)が錦絵を盛んに企画・販売していた。
 
 錦絵は元来木版印刷の大衆向け風俗画である。当時から美術品的評価がされていたのだろうか。むしろ恐らくは、近代の写真、映画、TV、複写機のモノクロからカラーへの進化のように、色彩の持つ表現力や視覚訴求効果のインパクトが作品の付加価値と人気を高めたものと考えられる。 
 商業ベースで軌道に乗った木版多色刷りは、浮世絵を進化・開花させ、版元と発行数を増やし、絵師や職人(木版彫師・摺り師)の輩出のほか、視点を変えると、視覚メディアとしての印刷物やマス・コミュニケーションの領域にも様々な影響を及ぼした出版・印刷革命でもあったようだ。 
 
 江戸時代初期の出版物は、活字を組む印刷方法で作られた「古活字本」が中心だったが、庶民の間に読書の習慣が広まると、それまで上方中心に行われていた出版も根拠地を江戸に移すことで出版の商業化が急速に進み、読書の大衆化を支えたのが「木版印刷」で作られた「整版本」であった。当時の庶民が好んだ本は絵を主体とした絵双紙(絵草紙)の類であり、江戸の庶民には「文字を読むことは見ること」であり「絵を見ることは読むこと」であった。整版本はプロセスに時間と費用が掛かる反面、文字と絵が一緒に印刷できる利点をこの顧客要求に活かせたのである。 
 
 「江戸文字」といわれるシンボライズされたタイポグラフィや「文字絵」という遊び絵が考案されたのも、「文字を見る」視覚性を重視した視覚文化の所産であり、現代のレタリングに相当する仕事の「文字師」という職業もあったようだ。火消しの半纏や纏(まとい)に書かれた独特の力文字、勘亭流、相撲文字、寄席文字、ひげ文字、千社(札の)文字等はその創案による代表的江戸文字であり、「粋」、「伊達(だて)」、「いなせ」、「意地」を込めたパワフルな「見せる文字」の例である。
 
 文字と絵が一緒に印刷された絵暦(えごよみ)や引札(客に配るチラシ)、ビラ(今のポスター)も種々工夫されて、平賀源内、式亭三馬、柳亭種彦、山東京伝といった当時の人気作家がコピー(宣伝文)を書き、目を惹くイラスト(絵)は売れっ子浮世絵師達が腕を競い合ったのも現代のアド業界と変わらぬ構図である。 錦絵はアド・ツールとしても不動の地位を占めていたのである。
 
 江戸錦絵の考察で感じたことは、モノクロ〜シンプル・カラー〜多色印刷への進化や絵師と画風・技法の高度化など浮世絵の技術的系譜と錦絵の爛熟過程や完成度に注目しながらも、新たに学んだ第1点として、江戸独特の「庶民の視覚文化土壌」が背景にあったこと、第2点として、商・工振興に伴うマーケティングやマス・コミュニケーション、とりわけ ヴィジュアル・コミュニケーションの想像以上の発達状況と、その中で錦絵の果たした知られざる重要な役割の発見、第3点として、この連載を始めるまで上記第1点、第2点の視角を持ち得なかった自らの不明への反省でした。
(参考資料・引用資料)
・  Web より、 フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」 『浮世絵』
・  印刷博物館 Printing Museum News Vol.11「文字と絵のワンダーランド」


■連載第7回:第一章 江戸の名物 〜その8 火事  その9 火消し 【77号 050701】

その8 火事

 名物にもなる火事の多さとは、一体どれほどのものだったのか。一千戸単位で延焼した大火の記録だけでも200件以上あり、毎日のように発生した中小火災は数えきれないほどであった。 

確かな記録に残る享保六年(1721年)の頻発火災を見てみよう。(「江戸十万日全記録」より)

・1/ 8 呉服橋から出火。鉄砲洲・南本郷町まで焼ける

・1/27 麻布善福寺門前から出火。武家屋敷を主に幅五町長さ一里焼亡

・2/ 3 三河町四丁目から出火。神田・下谷・上野・浅草まで焼ける

・2/ 4 牛込納戸町から出火。小日向・小石川辺焼け、日暮里に至る。焼死者380余人

・2/ 7 四谷から出火。武家屋敷多く焼け麻布三間屋に至る

・2/ 9 四谷忍町から出火。赤坂・麻布・三田・芝浦まで焼ける

・2/14 神田小川町火事。町火消しと大名火消しが喧嘩。双方死人2〜3、手負い多数

・3/ 3 神田三河町三丁目から出火。須田町・桶町・山谷・千住大橋に及ぶ

・3/ 4 牛込神楽坂から出火。小日向・小石川・伝通院・大塚・駒込まで焼ける

 

 大火の例では、「明暦大火(振袖火事)明暦三年 1657年」、「明和の大火 明和九年 1772年」、「文化の大火 文化三年 1806年」が『江戸三大大火』と言われ、その他の大火として「天和の大火(八百屋お七) 天和二年 1682年」、「元禄大火 元禄十六年 1703年」、「安政の大地震による出火 安政二年 1855年」などがある。炊事・照明・暖房を裸火に頼り、狭い町人地に密集する板葺きの木造家屋、人力依存の消火体制など、火災に脆弱な江戸は風が吹くとたちまち飛び火・延焼し、時に混乱に乗じた「つけ火(放火)」も加わって度々の大火となったのである。

 

 明暦の大火以降、萱葺き、藁葺き、板葺き屋根の上に土を塗ったり、牡蠣殻を敷いたりして火を防ごうとしていたが、享保五年(1720年)、それまで町屋では禁止されていた瓦葺き建築が吉宗によって許可され、土蔵造り、塗屋造り、焼屋造り、三タイプの町屋が見られるようになる。

(注)・土蔵造り(瓦葺き屋根、外壁を分厚い土壁・漆喰仕上げ。土蔵のような完全密閉は出来ず)

   ・塗屋造り(瓦葺き屋根、二階正面外壁のみ土壁・漆喰仕上げ、他の外壁は木造下見張り)

・焼屋造り(板葺き屋根、外壁は全て木造下見張り。いわゆる裏長屋の造り)

 

 小石川 水戸屋敷(現後楽園)から出火、湯島・神田・浅草・本所・深川まで延焼して両国橋、大橋(吾妻橋)も焼け落ちた前記「元禄大火」の火に追われる町人が、避難途上に目撃する生々しい火災の光景が時代小説の中に描かれている。(「柳橋物語」より (  )内ルビ:筆者、句読点:ママ)

 

 「火の様子を見にいった幸太がなにも云わないのは、云わないことがそのまま返事だからである。

それでなくとも、横なぐりに叩きつけて来るような烈風は、すでに濃密な煙とかなり高い熱さを伴っているし、頭上へは時おりこまかい火の粉が舞いはじめていた。『爺さんもおせんちゃんも、少し横になるほうがいい、火の粉はおれが払ってやるから』 そうすすめるので、源六とおせんは蒲団をかぶり、包みに倚りかかって楽な姿勢をとった。(略)危険は考えたより遥かに早く迫って来た。

 

 幕を張ったように、鋭い臭みのある煙が烈風に煽られて空を掩(おお)い地を這って、あらゆるものを人々の眼から遮り隠していた、そのあいだに火は茅町から平右衛門町へと燃え移っていたのだ、誰かが『あんな処へ火が来ている』と叫び、みんながふり返ったとき、河岸に面した家並の一部から焔があがった。風のために家から家と軒続きに延びて来たのが、ひとところ屋根を焼きぬくと共に、撓めるだけ撓めていたちからでどっと燃えあがったのだ、

 

 ちょうど巨大な坩堝の蓋をとったように、それは焔の柱となって噴きあがり、眼のくらむような華麗な光の屑を八方へ撒きちらしながら、烈風に叩かれて横さまに靡(なび)き、渦を巻いて地面を掃いた。頭上は火の糸を張ったように、大小無数の火の粉が、筋をひきつつ飛んでいた、煙は火に焦がされて赤く染まり、喉を灼くように熱くなった。煙に咽(む)せたのだろう、どこかで子供が泣き出すと、堰を切ったように、あっちからもこっちからも子供の泣きごえが起こった。(略)」 

 

 この前年(元禄十五年 1702年)には、2/14四谷新宿の出火で品川まで焼け、12/14赤穂浪士の討ち入り、12/26浅草本願寺の出火で本所猿江まで焼失、続くこの年は元禄大火に先立つ11/18に四谷北伊賀町からの出火・延焼が赤坂・麻布・芝に及び、4日後の11/22には、関東大地震で江戸はまたも大火、安房・上総・伊豆大島などを津波が襲い15万4千余人の死者を出したあと、「これでもか」とばかりに11/29の元禄大火だった。恐るべき大災害の連打である。

(参考資料・引用資料)

・「江戸十万日全記録」 明田 鉄男 編著  雄山閣 

・Web より  「大江戸歳時記」  http://www.edo.net/edo/edotx/ituwa/

・「柳橋物語」 山本 周五郎 著  新潮文庫

その9 火消し

 江戸の火事に立ち向かった消防隊は「定火消し」、「大名火消し」、「町火消し」である。 

「定火消し」は公儀消防で火消し屋敷に住み、四千石以上の旗本が火消し役に任じ、与力を置くいわば軍隊組織であった。「大名火消し」は幕府の命で(大藩)大名家が自前で擁していた私設消防隊である。両者の消防守備範囲はいずれも江戸城と武家地・寺社地であった。町人地を守る「町火消し」は吉宗時代の享保四年(1717年)、江戸町奉行 大岡越前守忠相が、それ迄の「店(たな)火消し」を母体にして「町火消しいろは四十八組」に編成、別に本所・深川に「十六組」を設けて、各々(町人地の)守備範囲を定めて任に就かせた民間自治消防団である。

 

 龍吐水と呼ぶ能力乏しい手押しポンプ以外に消火設備はなく、もっぱら、出火地点の風下の家を人海戦術で撤去する「破壊消火」であったから多数の員数を要した。「定火消し」は幕府若年寄支配下の定火消し役を指揮官に、与力、同心、火消し人足の編成で総勢約1,300人。そのほか「大名火消し」、「町火消し」を含めて江戸の火消し総数はおよそ1万人だったという。

 

「定火消し」の人足は「臥煙(がえん)」と云われ、極寒の頃でも素肌に法被一枚を纏って男の意気を示し、満身の刺青を競い、白足袋はだし、髪の結いぶり、法被の着こなしに江戸っ子たるを誇った。しかしそれは、慶安(元年〜四年 1648年〜1647年)の頃、定火消しが設けられ相次ぐ火事に大いに働きを示し、宝永(元年〜七年 1704年〜1710年)、正徳(元年〜五年 1711年〜1715年)の時代に江戸っ子を代表するものとされていたためであった。 

 

 その誇りから、理非を弁え義侠心も厚かったが、時代が下るにつれて次第に世間に無理が通るところから悪事を為す者が増え、博奕と酒色に耽って金に詰まると小悪党に化す、市井には聊か迷惑な存在にもなっていった。「大名火消し」は、その火事装束に華美を競うので有名であった。赤穂藩、水戸藩など数ある大名火消しの中でも加賀藩前田家の加賀鳶は、百万石の威勢とひときわ華麗な装束、梯子登りのみごとな火消し活動などで他を圧倒し大いに名を売った。 

 

 「町火消し」は、奉行所から僅かながら手当てを貰うが、平素は(鳶職などの)本職で生計を立て、有事に火消しとして出動した。町火消しが市井から疎んじられることがなかったのは、日常から万事 頭(かしら)の世話を受けて親分・子分の関係が色濃く、自然に情義が厚くなったからといわれる。頭=親方となっている者は、自らを男の中の男と任じて、一諾千金を重しとし、仁義厚く、町内の揉め事・厄介ごとの処理にも骨を折るなど、世間の信用と人望を得ていたのである。

 

 出火の時は、風上の町が二町、左右の町が二町ずつ、計六町が出動した。先頭に頭取、続いて梯子、纏、平人足が長鳶口を持って3〜4列になり、そのあとに龍吐水が続いた。纏は「この地点で火を食い止める」という標識(「消し口」といった)であるが、戦場の「軍旗」に等しく、火消しの決意と士気・闘志を鼓舞し、地域住民には火消しへの期待と祈りの精神的拠りどころでもあった。

(参考資料・引用資料)

・柴錬捕物帖「岡っ引き どぶ (続)」 柴田錬三郎 著  講談社文庫

・Web より 「江戸なんでも工房」(江戸の町火消し)(江戸の都市作り)

  http://park5.wakwak.com/~toshkish/index_ie.html


■連載第8回:第一章 江戸の名物 〜その10 喧嘩  その11 中っ腹
その10 喧嘩

 「火事」と並んで江戸の華とされた「喧嘩」。いまさら代表的事例の紙上再演では気が利きません。喧嘩について「都市民族学」の視点から論考した大変興味深い資料の内容をご紹介しながら、江戸の喧嘩の何たるかを見てみましょう。人間の醜態とも思える喧嘩沙汰が「名物」になる所以とその根底にある江戸っ子の美学が見えて、江戸のイメージが一層鮮明になると思います。
 (「」内は資料からの引用ですが、引用部分・その他の部分ともに、紙幅の関係で原文の字句や順序の修整・加工及び内容の抜粋・要約・編集等を加えています。)
 
 著者はまず、動物(行動)学の個体本能から江戸の喧嘩の根源を説き起こします。
「例えば十羽の鶏の群れに一握りの穀粒を投げてやると、鶏たちの間には一種の争いが起きる。一羽が他の鶏に対して威嚇の姿勢を示したり、嘴で突いたりする。その争いの結果、強い順番に餌を啄ばむ一つの『秩序』が形成されこれを『つつきの順位』という。順位制の出来た群れは、ある期間別々に隔離して再び一緒にしても、大した混乱もなく 同じ順位制によって行動する。」
 
 この『順位制』は、動物を単なる『群れ』から『社会』へ転化させる契機であり、サル社会にも存在することや人間にも様々な形で作用している論考も引き、「集団の秩序が形成されるには、ある種の順位確定手続きが必要で、それには何らかの争いが介入する」ことを説明する。続いて、互いに許容出来る物理的・空間的距離の問題(『なわばり性』)を取り上げ、人も動物も個体間距離が或る一定以下になるとストレスを感じる本能を指摘、結局、人間の喧嘩も 『順位の争い』と『なわばり性』という動物学的な本能(の摩擦)が根源、とする見解を、最初の前提として示します。
 
 そして、喧嘩が発生する環境というのは、都市のように互いに見知らぬ者同士が雑然と混じり合い密集しているような空間であって、同じ都市でも定着度の高い住宅地などでは喧嘩は滅多に起こらないが、見知らぬ同士が相互の関係を明確化する必要がある場面で起き易い実情を述べる。 
 つまり、諸国人間、種々の人が入り混じって自由に雑居し、順位関係が定かでなく、人口移動が激しく、一旦定まった順位さえも一時的であるような社会、当時の江戸はまさにその典型であって、喧嘩や争いの基盤は十分すぎるほど揃っていたことになる。これが喧嘩の起源と環境である。
 
 次いで、江戸の喧嘩の真骨頂ともいうべき『喧嘩の美学』が、諄々且つ濃密に論じられる。
「人間の行動原理には『表』と『裏』があり、『表裏一体』で人を動かしている。『表』の争いはあくまで手続き論であり合理的かつ冷静な処理を要し、最終的には法的判断に委ねられている。反面、『裏』の原理は極めて情緒的であり、都市生活の中での喧嘩はその根拠が曖昧なものが多い。」
 その通りなのだ。足を踏んだ、いや踏まない、謝らない、江戸っ子の喧嘩は概ねそういうもので、戦果も収穫も殆ど得にならないし、時には何を争っているのかさえ分からないようなこともある。それでも喧嘩するということは、時としてそれは一種の娯楽に転化しているとも受け取れる。
 
 「こうした市井の喧嘩は、余程のことがない限り法的問題にはならないし、当事者は勿論、周囲の人達もそうした争いを『表沙汰』にすることを嫌う。従って、それを規制する為には、何らかの(『裏』の原理による)『作法』というものが自律的に工夫されなければならなかった。まず、喧嘩だ、いさかいだ、といっても、目的の為には手段を選ばず、とか、喧嘩は勝てばいい、というものではなかった。前記のとおり、喧嘩は勝敗による得失が不明確で、もともと目的合理性に欠けているから、目的より手段そのものが評価の対象になったりするのである。」
 
 市井の喧嘩における唯一の価値基準は、『きれい』、『きたない』という美学の基準であって勝敗などは二の次であったようだ。具体例を挙げよう。勝敗第一であるなら、数名で一人に圧勝することは極めて合理的な方法だ。しかし、『裏の作法』はこれを許さない。大勢で一人を叩くというのは、何よりも美的に『きたない』のである。水野十郎左衛門と播随院長兵衛との喧嘩では、勝者は明らかに水野だがその手段の『きたなさ』ゆえに、結局、英雄になったのは播随院なのである。「周りに沢山の人がいる以上、恥ずかしいことは出来ない。時に虚勢もあったが、『見られる自我』の目覚めによって『意気』、『意地』、『張り』、といった徳目が行動様式の中に組み込まれる」
 
 個人の中でこうした美的基準が強く働くと、喧嘩の当事者が最も気になる存在は見物人である。
当事者はいわば演技者であり、周囲の評価が重圧としてのしかかる。状況を如何に美的に処理するか、それが当事者の最大関心事だった。『きたなく勝つ』よりむしろ『きれいに負ける』ほうが行動様式として圧倒的に高い評価を受け、『きれいな敗北者』も衆目の見るところ最高の英雄なのである。このことは、見事な勝利を収めることが至難の業であり、強者が弱者に勝つのは当たり前、強者は勝てば憎まれ負ければ軽蔑され身の処し方が極めて難しく、 喧嘩においてむしろ弱者の方に『歩』があった。だから、勝敗を度外視して弱者が『意気』で強者に挑んだのである。
 
 喧嘩の手法にも美学があった。「直接的な暴力行為に先行して、まず口論で勝ちを制することが望ましいのである。武闘より文闘であり、喧嘩の場合にはそれは『啖呵』の形をとる。当意即妙に悪口の限りを尽くす『レトリック』、それがまず要求されたのだ。わだかまっていた気持ちを吐き出す、或いは言いたい放題を言ってしまう、『啖呵』は心理学的には一種のカタルシスである」江戸っ子の心意気は分かるにしても、見事なレトリックを駆使する能力まで果たして有ったのだろうか。どうやら、スキルアップには熱心だったようだ。そのテキストは芝居だったそうだ。
 
 絶妙の啖呵を切りたくても現実には易々と出来るものではない。もどかしい気分の解消と手本になったのが芝居の中の名台詞・名調子であったという。芝居の主人公が澱みなく吐く悪態で心理的代償満足を得、それを覚えて喧嘩の場面に応用するなど、現実生活と演劇の世界との間に相互干渉があって、「芝居が喧嘩の台詞から作法に至る美学を民衆に教え、また民衆の生活を美的に昇華する役割を芝居が担った」のである。

 喧嘩の美学が多分に芝居的であり、見物人の存在と衆目の評価を最も気にしたことからも、喧嘩自体が任侠の色彩を帯びた一種の芝居(演技)とも云えるし、主客双方にとって ある意味で娯楽の要素を含んでいたように思えるのである。 
 
 さて、始めた喧嘩をどう終熄させるかが次の問題である。ここにも『裏』の作法=美学が存在した。
「都市の人間は喧嘩という状況に投げ込まれても、自分の力でそれを処理することは難しかった。とりわけ、世間の期待するような美的基準を満たすなど、大部分の庶民には余りにも荷が重過ぎ、行きがかりで喧嘩を始めはしたものの、その後始末は手に余るのが普通であった」 「要するに喧嘩は仲裁を必要とするのである。甲乙双方の『顔を立てて』収める調停能力の優れた第三者の登場が必要だった」実際、仲裁人が居そうな所で始める喧嘩の例は多かったのである。
 
 「第三者とはどんな人物だったのだろうか。『表』の係争なら司法当局であるが、『裏』の第三者は『遊侠の徒』、『男伊達』、『顔役』などといわれた男達である」 必ずしも正義の代行者ではないが、既成の権威に反発し無私・誠意の市井行動美学を実践する人間達、それを侠(きゃん)と言った。彼らは喧嘩があればそこに割って入り、進んで調停役を買って出て喧嘩を預かり、時には自ら犠牲を払ってでも完全に調停に漕ぎ着ける。 こういう存在がなければ喧嘩は収拾がつかなかった。 
 
 調停の成立で、裏の第三者は顔を売り男を売り、当事者は以後、仲裁人に頭が上がらなくなるが、それが組織的な親分・子分の関係に直結しないにしても『恩と義理』の関係が生じ、こういう事件が何遍も繰り返されているうちに、調停者は自然に周囲から信頼されて親方や親分に祭り上げられていく。仲裁人は喧嘩の頂点であり、同時に、このような存在が民衆の願望の投影とするならば、実は、『喧嘩の美学の極致』は見事な仲裁(調停)にある、ということも容易に理解できる。 
 
 都市環境、喧嘩の多さ、仲裁人の台頭、それを当てにした喧嘩の増加、仲裁人のプロ化、ツボを心得た見物人、益々流行る喧嘩は段々垢抜けていく、主客双方芝居の気分、という進化の構図だとすれば、江戸っ子が『名物』として誇示したかった真意は、喧嘩の多さよりも、案外、『喧嘩作法=美学』で江戸風に洗練された『喧嘩の型=様式美』のほうだったのではないだろうか。 
 
 原本資料では、紛争の処理ルールや美学、裏の力学などについて、現代の事象まで例に挙げて詳細且つ広範に論考を展開していますが、ここでは江戸の喧嘩に関する要旨のみ引用しました。詳細にご興味のある方は下記URLで全文をご覧いただけます。

=A4版 8ページ
(引用資料)
・「紛争の美学」−都市民族学のこころみ−  加藤 秀俊 氏 著作データベース
 発行元:(社)農山漁村文化協会 「紛争の研究」(19790525発行)掲載
    http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2943.html
 
その11 中っ腹
 
古典落語や時代小説で「中っ腹」と表現されるのは、「むかむかしている」、「心中で不愉快に思っている」、「心中に怒りを含む」心境を表す(形容動詞の)場合と、「気短かで威勢が良いこと」、「短気なさま」、「腹を立てやすい気性」などを指す(名詞の)場合とがある・・・、という辞書的説明ではつまらない。「いまいましい」、「癪に障る」、「腹立たしい」、「面白くない」、「不愉快」、その他もろもろ、心にわだかまりのマグマが鬱屈して「胸くそ悪い」、「ストレス」満タン、やや誇張すれば「火気厳禁」の状態だろうか。 血圧・脈拍・体温を測れなかったのが残念だ。
 
 幕府の典礼定まって百年もすると、攻伐戦争の為に禄を食む武士の存在は無意味になり、泰平に慣れた武家は無事に安んじ紀綱も緩み、惰弱の気風が蔓延する。礼儀三千威儀三百と体面・格式のみは厳然と課したままの封建制度と身分・階級社会は益々矛盾と弊害を募らせてゆく。
 重商主義、金権腐敗、財政難、飢饉・・・、、屋台骨の制度疲労とシステム障害が進むにつれ何かにつけて “ワリを食う” ことの多い庶民が生きていくには、あらゆることに辛抱と忍耐が必要だった。 我慢の奥底の灰の中には、反骨と意地の火種が消えることなく埋もれていたと思われる。
 
 土着生産者である農民には強訴・一揆・逃散の強行手段もあるが、土地家屋を持たぬ諸国人寄り合い所帯、非生産者の江戸庶民の場合、武士が溢れる市中での暮らしは、官令に縛られ本音を吐露する術もなく、風刺が先鋭化する狂歌・川柳に喝采を送り溜飲を下げる位が関の山であろう。 
 生き馬の目を抜く新興都市生活も芯が疲れる筈である。寺社参り・信心、四季のささやかな物見遊山、芝居・寄席見物、祭礼、時候のしきたりや祝事など、束の間の非日常をせめてもの『気散じ』とし、子の成長や一家の小さな幸せを喜びながら、腹の虫をなだめ治めて心を癒し、精神衛生を図る。 こうして『臨界点』到達を回避しながら、辛うじて『中っ腹』のところで歯止めをかけていたのかもしれない。 現代都市サラリーマンの無党派層の心理も、これに近いのではないだろうか。
 
(引用資料)
・「広辞苑」 第二版  岩波書店
・「大辞林」 第二版  三省堂



■連載第9回:第一章 江戸の名物 〜その12 伊勢屋   その13 稲荷

その12 伊勢屋

 江戸に「伊勢屋」を名乗る店が多かった、というのは有名な話ですが、屋号の由来は出身地「伊勢」によるもので、江戸開府と同時に伊勢商人が江戸に続々と出店し、「伊勢屋」の屋号を掲げたのです。伊勢は古代末から中世には既に貨幣流通があり、南北朝時代から遠隔地商業も発達していた地域でした。 戦国末期、近江の武将 蒲生氏郷(1556〜1595年)が伊勢松坂に築城(1588年)すると、近江商人がここに移って商法を伝え、伊勢(松坂)商人勃興の礎となります。

 

 江戸開府後は伊勢(松坂)の本店から優秀な番頭・手代を江戸店へ派遣して支配人とする「江戸店(たな)持ち」方式で、郷里の産物である茶や松坂木綿、その他様々な物資を商って三井、富山、伊豆蔵、竹川、長谷川など、多数の富商を生んだ。 江戸店の従業員は伊勢本店経験者か伊勢出身者、又は伊勢に何らかの縁ある者が殆どで、分・支店や暖簾分け、独立開業する時の屋号は、いきおい「伊勢屋」とするものが多くなったものと考えられます。新興都市江戸への進出が早かった分、都市経済の成長に伴い伊勢商人の細胞分裂的展開も加速したのではないでしょうか。

 

 江戸の主な問屋の数と屋号を業種ごとにリスト化した文化十年(1813年)の「江戸十組仲間名前」、「十組株帳」によると、水油仲買85軒のうち最も多い屋号が伊勢屋で17軒、紙問屋47軒のうち同じく10軒となっています。質屋に伊勢屋が多かったとか、吝嗇・強欲の代名詞でもあったとの俗説(落語など)は、むしろ、商才に長けていたことの証しとも考えられます。各業種の卸問屋、仲買、小売業まで大小合わせると、或る時期には江戸で最多の屋号だったのかもしれません。

 

 伊勢系の屋号の現状はどうでしょうか。iタウンページ(東京都)登録の「伊勢屋」は221軒、他に「伊勢元」など「伊勢○」というのが92軒、松坂屋が152軒です。他国名を冠した屋号では他に三河屋244軒、越後屋238軒が健闘していますが、伊勢・松坂連合の465軒には及びません。 

 屋号・業種の相関関係では三河屋244/酒店81、越後屋238/酒店34/豆腐30、松坂屋152軒/94業種に完全分散して突出するものなし、伊勢屋221/和菓子店99/菓子製造42と、伊勢屋はなぜか菓子商が6割強を占めています。その辺の事情はまだ調べがついておりません。

 

 江戸から30里の上州の片田舎、私の生まれ故郷にも団子の旨い伊勢屋という古い和菓子屋が今でもあります。そして私の父方の祖父に伊勢松、母方の5代前に伊勢吉という名の先祖が居りますが、伊勢との関りは不明です。 思うに、「伊勢屋」は江戸の昔から今に至る400年の間、絶えることなく、誰もが知っているどこにでも有るポピュラーな屋号であり続けたことだけは確かです。 この古典的屋号はいつまで続くのか、もはや余命いくばくもないのでしょうか。昔の「伊勢屋丹治呉服店」があの「伊勢丹」となり いまや「ISETAN」です。「伊勢屋」の今後が気になります。

 

 希望的観測ですが、和菓子屋であり続ければ(漢字の)「伊勢屋」という屋号はまだ続いていくのではないでしょうか。カステラくらいなら踏みとどまれそうですが、洋菓子でも売るようになると「伊勢屋」(の屋号)が邪魔になり、フランス語店名に変わったりします。創業○○年と入った金文字の看板が似合う屋号ですが、そこまで凝らなくても せめて暖簾に「伊勢屋」を染め抜いて、団子や豆大福、くず餅、茶饅頭、桜餅、水羊羹・・・、おはぎ、お赤飯、稲荷寿司も定評でお盆やお祭りの日は特に忙しい、そんな大衆和菓子屋のままなら「伊勢屋」の屋号は今後も続くでしょう。

(参考資料・引用資料)

・「世界大百科事典 巻―2」 平凡社

・Web より、 「江戸のお買い物ガイド」 麻生 花世

     http://www5.ocn.ne.jp/~sfurrow/gensan/uneune/kaimono.html

・Web より、「iタウンページ」   http://itp.ne.jp

その13 稲荷

 現在、全国の神社数が約13万、このうち稲荷が約4万を占めるそうです。路地裏や里山の小さな祠、工場の片隅、ビルの屋上、個人の屋敷の稲荷まで含まれているかどうかは分かりませんが、どこにでもあって何となく親近感のある神様です。御神体が白狐、お供物が油揚げ、というのも童話的で親しみが湧きます。奉納の赤い鳥居と幟が林立して、社殿脇には絵馬が鈴なり、子供の遊び場だったお稲荷さんの佇まいは、祭りや縁日の記憶と共に忘れ得ぬ昔日の原風景です。

 

 江戸時代、八百八町と言われた江戸各町内には必ず稲荷があり、『江戸の夕栄』という書物では、なんと、「本所・深川辺にては一地面に必ず一つ稲荷あり」と書かれています。江戸切り絵図の「日本橋北・内神田・両国浜町」では、寺社の印(赤表示)25箇所が全て○○イナリ(稲荷)です。

「小石川・谷中・本郷絵図」には『化け物稲荷』というのも載っています。(今の不忍通り沿い湯島三丁目14付近) この他にも絵図に載らない武家や商家の屋敷稲荷が多数あったのです。今でも東京のあちこちに稲荷が数多くあるのは、江戸時代が終わり広大な武家・大名屋敷、商家の跡地に稲荷が残ったり、動座して町に溶け込んだもの、といわれています。

 

 稲荷信仰の起源は大変に古く、元々は、農耕的性格の強い「田の神」信仰の中で、鳴き声や行動、繁殖力など狐の独特な挙措習性が農民に或る神秘的な印象を与え、狐は「田の神の使い」、つまり、稲作の守護神「稲荷神」の使令とされるようになりました。 その後、真言密教や道教との習合、行者・修験者・巫女などの狐霊憑(これいひょうい)依託宣や解説・宣伝なども加わり、稲荷信仰は各地に広がりながら、次第に「狐」(の神秘性)そのものに対する信仰の色彩を帯びていきました。 

 

 時代が下がるにつれて産業が興り商業が活発化すると、稲荷は農業だけでなく産業全体の殖産興業神、商業神にもなり、そして、一番身近な神として鎮守的性格が強くなって、江戸の大問題であった火事の神として狐が咥える宝珠が火炎の玉と解釈されたり、初午の祭りの隆盛と共に子供の守り神として痘瘡の神ともなっていきます。この頃はまだ、人智及ばぬことが多く、ほぼ全ての人々が「物の怪」や「魔魅妖魔」の存在とその神通力を固く信じて畏れる時代だったのです。

 

 18世紀後半以後には、安永元年(1772年)に老中となった田沼意次(1719年〜1788年)の稲荷信仰が評判になり、授福開運の神として武家や町屋の商人も勧請して江戸中に広まりました。江戸時代末期には「翁稲荷」、「三囲(みめぐり)稲荷」、「太郎稲荷」、「妻恋稲荷」、「真崎稲荷」、「瘡守(かさもり)稲荷=笠森稲荷」などが当時の流行神として人気を集めました。初午は江戸中の稲荷が一斉に祭りを行ったのでその賑やかさは格別だったようです。お稲荷さんの正式名は「正一位稲荷大明神」。関八州の稲荷本社が王子稲荷、全国総元締めは京都伏見稲荷です。 

 

 神格といい、総元締めといい、ご神体の白狐といい、由緒正しい高貴な神様の風格ですが怖さもあります。祠の中の白狐は、「お座り」の姿勢で太い尻尾を直立させ、深く裂けた真っ赤な口に巻物や宝珠を咥え、目尻の吊り上った金色の細い目でぬかずく者を睥睨しています。 一心不乱に祈るうちにいつしか原始の幽界を彷徨い怪しい幻覚と妖気に包まれて、前後不覚の内に狐霊が乗り移る・・・、そんな気がしませんか?  えっ、しない?  「いまどき子供だましのような戯言は笑止千万 片腹痛い」とおっしゃいますか。まあまあ、そう言っては身も蓋もありませんから、ここはひとつ江戸っ子の洒落気分、せめて “狐につままれたような顔” で鳥居を後にしましょうよ。

 

(参考資料・引用資料)

・「世界大百科事典 巻―2」 『稲荷信仰』 (堀 一郎)  平凡社

・Web より、高砂屋浦舟 著 「江戸の夕栄」 大正11年4月18日発行

   (著作兼発行者)鹿島満兵衛  (発行所)紅葉堂書房

    http://csx.jp/~amizako/edonoyuubae.txt

・Web より、「稲荷信仰」 http://www.tabiken.com/history/doc/B/B113L200.HTM          

・Web より、「江戸のつれづれ」所収 『稲荷社など』

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2729/inari.htm

・「金鱗堂尾張屋板切り絵図 嘉永三年新刻 安政六年再板」

・「『半七捕物帳』大江戸歳時記」  今井金吾 著  ちくま文庫

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第一章「江戸の名物」は今回で終了です。 次回からは第二章「江戸の情景」と題して、これまでの拙文の口直しに、著名作家の時代小説から、感興をそそるくだりや秀逸の場面描写、江戸の風物などを選んで、そのまま抜粋・引用させていただきます。 

紙面の都合上、余白や改行は原作通りにはなりませんのでご了承ください。

 

*「大江戸こぼればなし」の過去の連載を下記からご覧になれます

  http://www.npo-idn.com/



■連載第10回:第二章   その1夕立   その2 夏の虫

第二章 その1 夕立

 夏にはつきものだった夕立が、近頃は滅多に降らなくなったとは思いませんか? 
雷鳴に稲光、風鈴が鳴り続け、通りに人影が消え軒下が薄暗くなり、まるで篠竹が降ってくるような土砂降り、忙しく雨戸を繰る音、出しっぱなしのバケツを叩く雨音・・・・・。 雷が遠のいて雨がやみ、外へ出ると空にはきれいな虹、水溜りに映る青空、やがてまた蝉の声、・・・まだ日暮れには間がある・・・。私の夕立の記憶はそんな具合で、少年時代の夏を彩る風物詩の一つでした。
 
 或る江戸ものの本に、夕立らしい夕立というものが、時代を追って少なくなってきたらしいことが書かれています。明治二十年代末に、江戸時代から生きてきた老人が語る雷と夕立の話です。
 
 「『しかし、昔にくらべると、近来は雷が鳴らなくなりましたね。だんだんと東京近所も開けてくるせいでしょう。 昔はよく雷の鳴ったもんですよ。どうかすると、毎日のように夕だちが降って、そのたんびに、きっと ごろごろぴかりと来るんですから、雷の嫌いな人間は全く往生でした。 それに、この頃は、昔のような夕立が滅多に降りません。このごろの夕立は、空の色がだんだんにおかしくなって、もう降るだろうと用心しているところへ降ってくるのが多いので、いよいよ大粒がばらばら落ちてくるまでには、小一時ぐらいの猶予はあります。
 
昔の夕立はそうでないのが多い。今まで焼けつく様に日がかんかん照っているかと思うと、忽ちに何処からか黒い雲が湧き出して来て、あれ、という間も無しにざっと降ってくる。しかもそれが瓶(かめ)をぶちまけるように降りだして、すぐにごろごろぴかりと来るんだからたまりません。往来を歩いているものは不意をくらって、そこらの軒下へ駆け込む。(略)
 
 しかしまた、その夕立のきびきびしていることは、今云うように土砂ぶりに降ってくるかと思うと、すぐにそれが通り過ぎて、元のように日が出る、涼しい風が吹いてくる、蝉が鳴き出すというようなわけでしたが、どうも此の頃の夕立は降るまえが忌(いや)に蒸して、あがり際がはっきりしないから、降っても一向に涼しくなりません。 やっぱり、雷が鳴らないせいかもしれませんね。』 
老人は雷の少ないのを物足らなく感じているらしく、この頃のようではどうも夏らしくない、時々はゆうべのように威勢よく鳴って貰いたいなどと云った。(略)」 
(  )内ルビ:筆者  (出典:半七捕物帳(三) 『雷獣と蛇』 岡本 綺堂著 光文社)

  
 季節や天候を、天然・自然のまま謙虚に受け容れて暮らした時代は、森羅万象にもメリハリがあり、季節感も日々の明け暮れも、印象が際立っていました。 江戸情緒の良さは、自然の営みに素直に向き合い、時には畏れ、時には楽しみ感謝しながら過ごした人々の生き方・暮らし方から生まれた魅力なのでしょう。江戸の風情に触れた書物には歳時記風の構成が多く見られ、市井物語でも話の筋と一体で、四季や暦の節気と刻限に応じた丁寧な情景描写が味わいを深めています。
 
もう一つ、別の時代小説から、江戸の夕立の様子をご紹介します。
 
 「(略) さよ(十二歳)は辛抱強く眺めつづけたが、さっき動いたものは二度とあらわれなかった。気のせいかしらと思ったときうしろのほうで大きな声がした。 『そこのむすめっ子』とその声が言った。とび上がるほどびっくりしたさよが振りむくと、声の主は斜め向かいの古手屋のおじさんだった。 太ったおじさんはひと雨くるぞと言い、言いながらせっせと店先に出してある商い物を中にしまいこんでいる。『お使いの途中じゃないのか。早く帰らないとずぶ濡れになっちまうぞ』 おじさんはさよが抱えている小さな風呂敷包みをみて、お使いと見破ったらしい。 
 
 さよは顔を赤くしてぺこりと頭をさげると一散に走り出した。 日は変わりなく照っていたが、いつの間にか光が白っぽく変わり地上の物の影がうすくなっているのにさよは気づいた。河岸の道に出たときに、不意に強い風がうしろから吹きつけてきた。 さよは身体をあおられて風呂敷包みを落としそうになり、あわてて包みを胸へ抱え込んだ。風は強いだけでなく、ぞっとするほどつめたかった。振りむいて空をみたさよは、思わず恐怖に襲われて声を立てるところだった。 さよがこれから帰って行く新大橋の向こう岸の町町は、日を浴びて白くかがやいているのに、“あたけ”の北にひろがる町町の上の空は、見たこともない厚い鉛いろの雲に埋めつくされていた。 
 
 そしてその下の一段低いところを、うすい黒雲が右に左に矢のように走り抜けているのだった。
あの橋さえわたってしまえば、と必死に走りながらさよは思った。だが橋にたどりつく一歩手前で、日が雲に隠れてあたりは夕方のように暗くなり、つづいて雷が光った。さよが下駄を鳴らして橋に走りこんだとき、頭の上で恐ろしい雷鳴がとどろきわたり、ほんの少し間をおいてからさよのまわりが一斉に固い物音を立てはじめた。 そしてそれはすぐに、耳がわんと鳴るほどの雨音をともなう豪雨になって、さよだけでない橋の上のひとびとに襲いかかってきた。
 
 その雨の中に紫いろの光がひっきりなしに光り、雷鳴はずしずしと頭の上の空をゆるがした。『落ちたよ』 と誰かが叫ぶ声がして、さよは恐ろしさに足が竦むようだった。 するとそのとき、びしょ濡れの身体のうしろから傘をさしかけた者がいた。『ほらよ、入んな』と男の声が言った。
ありがとうございました、と言って、さよははじめて男の顔を見た。 傘に入んなと言われたときも夢中で、顔を見るゆとりなどはなかったが、立ちどまってむかい合って見ると、男は二十過ぎと思われる若い男だった。 風体からみて、職人ではなくお店の奉公人だろう。(略)」

( )内ルビ:筆者  (出典:「日暮れ竹河岸  藤沢 周平 著 文春文庫」 所収 『大はし夕立ち少女』 )


【筆者註】:「あたけ」=当時の新大橋東岸の上手にあった幕府御船蔵あたり。 江戸初期に幕府の巨大軍船「安宅丸」が係留されていた。のち廃船となって埋められたあとも、この辺の地名は船名そのままに「安宅=あたけ」と呼ばれた。 現・新大橋二丁目川端。 
 

第二章 その2 夏の虫
 自然が豊かで、沢山の子供がどこにでもいた時代は、野原も空き地も一年中いつでも子供の領地だった。 今はなぜか、子供の季節は夏だけ、という気がしてならない。 普段 外で遊ぶ子供を見かけず、わずかに夏休みの間だけ目につき、「やっぱり 居たか」、「どこから現れたか」と珍しく思う。 夏は昆虫の季節である。 今の子供も虫が好きなようだが、野生がいなくなって図鑑や昆虫屋でしか見られないものも多くなった。 中でも、バッタ類はどうしたのだろう、消えてしまったのだろうか。 きりぎりすの声も姿も見なくなって久しい。かつては、夏の午後、下町の路地を通ると簾(すだれ)が下がった家の窓辺で、涼しげで歯切れ良い きりぎりすの声が聞こえたものでした。 
 
 五十年以上も昔の古い話ですが、夏の草いきれの中で きりぎりす捕りをよくやったものです。
捕り物の場所は、陽炎ゆらめく線路に沿った土手の草むら。 鳴き声を目指して忍び足で近づき目星の場所で静止。きりぎりすは大抵鳴きやむ。 微動だにせずじっと待って、再び鳴き出したら顔を近づけて姿を見つける。用意の仕掛けを鼻先へそっと下ろすと虫はしがみつく。 そろそろと糸を上げると敵は長い後足で草に掴まって離れない。 これを焦らずだましだまし引き上げる、という手管だった。捕り方に上手下手はあっても、その頃はきりぎりすがいくらでもいました。
 
 何事によらず初物や“はしり”がもてはやされた江戸では、夏になると、夏虫の蛍などはもとより、秋虫のこおろぎや松虫、鈴虫まで売られていた。 せっかちな江戸っ子は、季節まで前のめりで手にしたいのだろうか。武家も季節の虫を楽しんだようだ。値打ちのある早い時期に、高価で風流な贈答品として、「きりぎりす」が立派な虫籠付きで贈られたお話です。 以下(  )内ルビ:筆者
 
 「六月(註:旧暦)もなかばを過ぎた夕暮れに、隼新八郎が御奉行の御用をすませて御番所へ帰って来ると、出迎えたお鯉が、『先程まで落合様がお待ちでございました』という。落合といえば、新八郎と兄弟同様のつきあいをしている中川御番衆の落合清四郎に違いない。『何か、用だったのか』と訊くと、『そちらの虫籠をお持ちになりましたのです』新八郎の控部屋になっている四畳半の文机の上を指した。成程、舟形の精巧な造りの虫籠に紫の組紐をかけたのが、ちょこんと載っている。 のぞいてみると蟋蟀(きりぎりす))が数匹、草をあしらった中にうずくまっている。
 
 『こいつは立派だな』 眺めているところへ、用人の宮下覚右衛門が入ってきた。『落合殿がくれぐれもよろしゅうとのことであったぞ』 『わざわざ、虫籠を届けに来られたのですか』 新八郎とは身分を越えたつきあいをしているが、三千石の旗本である。もっとも、落合清四郎には、そうした気軽なところがあるのを新八郎は知っている。『奥方様の御実家の御下屋敷で御家来衆が捕えたそうでございます。あまり沢山、届いたので、おすそわけとおっしゃっていらっしゃいました』お鯉が傍からいった。
 
落合清四郎の奥方は内藤豊前守の妹で、内藤家の下屋敷は深川のはずれ、中川沿いにある。
『あのあたりなら、虫も多いだろうな』 『鈴虫も邯鄲(かんたん)も啼くそうでございます。でも、蟋蟀が一番、よい声なのでと仰せられました』お鯉の言葉にうなずいて、宮下覚右衛門がいった。
『虫売りから買うと、一匹、一両もすると申すぞ』 『蟋蟀がですか』 『左様、五匹で五両、まともでは買えぬよ』普通、女中奉公に出た者の一年間分の給金が一両二分であった。いくらなんでも、虫に一両は冗談ではないと思い、新八郎は御番所の御用部屋へ出て行った。
 
 さりげなく、のぞくと定廻りの大久保源太が今しがた町廻りから戻ってきたばかりといった様子で机にむかっていたのが、新八郎に気づいて、そっと廊下に出てきた。 『大久保は虫の値を知っているか』 新八郎が訊き、『虫売りの虫ですか』 『蟋蟀は如何ほどだ』 『大きさにもよりますが、高いですよ』 『一両ということはあるまい』 『いや、下手をするとそのくらい、吹っかけられますよ。なにしろ、まだ六月ですから・・・』 『六月は高いのか』 『まだ、虫屋の育てたものが多いですからね。ぼつぼつ、野っ原で捕って来たのが出廻りますと、少々、安くなります』 蟋蟀が一番高く、次が邯鄲で二分ぐらい、鈴虫が二匹一分、蛍は一朱ぐらいだろうと大久保源太はいう。
 
 『驚いたな、定廻りの旦那は虫の値も知っているのか』 『七月になると下がりますよ。それまで飼っていた虫を盆には供養のために放生(ほうじょう)と称して、庭などに放すのが普通ですから』 『一匹一両もするものを放すのか』 『いずれ、死にますので、それより庭からいい声で啼いてくれるほうが後生がいいということですかね』 『放生会(ほうじょうえ)は八月だろう』 『虫籠の中の虫の命は、そこまでは保ちません』 『成程なあ』  御奉行が評定所からお戻りと知らせが聞こえて、新八郎はあたふたと奥へひき返した。落合清四郎が持ってきた虫籠は、根岸肥前守の御居間の廊下におかれ、蟋蟀は実によい声で啼いた。
 
 そうしたことがあったので、数日後、池之端まで出かけた新八郎は、帰り道、不忍池のほとりに虫売りの姿をみて、なんとなく、その前に立ち止まった。縦長の四角い箱は幾段にも仕切ってあって、その一つずつが虫籠になっている。 もう一つの、やはり縦長の箱は上の部分が細かい目の虫籠で、下の部分は二面に黒い布が張られて、その中には蛍がいるらしい。若い女とその祖母らしいのが、鈴虫と松虫を、各々小型の虫籠に何匹かずつ入れてもらっている。虫売りが告げた値段は新八郎が考えていたより安く、籠二つで一朱であった。そこへ子供連れの夫婦がやって来て、今度は閻魔こおろぎを買っている。 
 
 ふいに肩を軽く叩かれて、新八郎はふりむいた。 鳴海絞りの浴衣に博多帯をきりっと締めた小かんが笑っている。 (略) 『御用の帰りなんだ』 なんとなく虫売りの前を離れて不忍池沿いに歩き出すと、むこうから熊吉を先に立てて勘兵衛がやって来る。 (略) 小かんは首をすくめただけで、すぐに、『隼の旦那は、虫売りの忠さんのところにお出でだったんですよ。 まあ、子供みたいな顔をして、虫籠のぞき込んで・・・』  派手な笑い声を立てる。 『知り合いが、蟋蟀を御奉行に届けに来たんだ。そいつがよく啼いてね、虫売りから買うと一両もすると大久保がいうから・・・』
新八郎の言葉に、勘兵衛がうなずいた。
 
 『今月のはじめあたりは、そのくらい致しましたでしょう。何分にも虫の値は高いものですから・・・』
虫の音に、虫の値をかけて、値段も高いが、声も高いと江戸っ子は洒落るらしい。 (略)
七月になって、新八郎は向島へ使いに出かけた。(略) 両国橋を渡ろうとして、新八郎は橋ぎわに虫売りが店開きをしているのに気がついた。 例の縦長の箱を二つ、かつぎ棒でつないだのを前におき、地面にしゃがんでいる。 この前、池之端でみた忠次郎という虫売りである。みたところ、客の姿はない。 新八郎が前に立つと、忠次郎は顔を上げた。 
 
 『お武家様は、こないだ小かん姐さんと御一緒だったお方でございますね』 苦笑して、新八郎は一足近づいた。(略) 『蛍を少し、貰いたいんだ』 向島のご隠居様へ話の種にと思いついた。 『ちょうどようございました。 源氏蛍のしっかりしたのが入って居ります』 三匹で一朱だが、 『御縁でございますから、五匹一朱にさせていただきます』 『それでは商売になるまい』 『本日は御武家様が初商いでございます』  結局、新八郎は十匹の蛍を二朱で買い、別に一朱を祝儀に与えて、早々に両国橋を渡った。 (略) 」  
(出典:「はやぶさ新八御用帳(九)平岩 弓枝 著  講談社文庫」 所収 『虫売りの男』 )
 
【筆者あとがき:蟋蟀(きりぎりす)のこと】
原作では「蟋蟀」にルビを振っていません。 この本を最初に読んだ時から「きりぎりす」のつもりで読解していましたが、今回改めて辞書で調べて大いに困ってしまいました。 
・広辞苑―きりぎりす=「螽斯」  ―こおろぎ=「蟋蟀」
・大辞林―きりぎりす=「螽斯」、「蟋蟀」 ―こおろぎ=「蟋蟀」、「?」
・ 大辞泉―きりぎりす=「螽斯」、「蟋蟀」 ―こおろぎ=「蟋蟀」
しかも、「こおろぎ」の古名が「きりぎりす」である、また、「きりぎりす」の古称が「こおろぎ」である、などと書かれている。 「こおろぎ」(直翅目こおろぎ科)と「きりぎりす」(直翅目きりぎりす科)は姿も生態も鳴き音も全く別であり、作中の「蟋蟀」が一体どっちなのか分からないでは話にならない。
 
 尚も調べると、「『万葉集』ではこおろぎときりぎりすは正しく分けられていたが、『古今集』でこおろぎがきりぎりすと誤ってよまれ、それが芭蕉の俳句まで続いた。きりぎりすが正しく訂正されたのは一茶の俳句や川柳の時代になってから」(世界大百科事典:平凡社)とあり、また、こおろぎの風習として、中国では金を賭けてこおろぎを戦わせる「闘蟋蟀」というものがある(仝上)。  
 
 どうやら、「蟋蟀」は、こおろぎを指すほうが優勢なようだが、前記の通り、誤ってよまれた経緯があるとすれば、かつては、同じ字をきりぎりすと読んだり書いたり、引用したこともあったのだろう。 
文豪作家達の用例も含めて更に調べた結果、近代では「こおろぎ」を指す字は「?」を使う作者が多いようです。 だからといって、「蟋蟀」が「こおろぎ」でないとはいいきれませんが・・・。
 
 結局今回の作者の意図がどちらなのかは分からずじまいですが、作中に「蟋蟀」と別の虫のように「閻魔こおろぎ」が出てくることや作品全体の様子から「こおろぎ」に疑問符がつき、武家に似合うのは「きりぎりす」ではないか、等の観点から、「きりぎりす」として書いているものと独断しました。 もし誤っていた場合は、平にお詫び申し上げます。



■連載第11回:第二章 江戸の情景  (その3)暁の大川端  (その4)女の想い 

第二章−3 暁の大川端

 夜といえば暗いものにきまっているが、どんな片田舎にも電灯が普及した現代、人は夜の本当の暗さを忘れてしまっている。江戸の頃は、暮れ六つ(午後六時)を境に町の姿は一変した。殆どの店は戸を閉め、せいぜい店先に立つ看板代わりの行燈のところが僅かに道を照らすのみで、月の光が一番の明るさであった。闇夜には、気配で辺りを察するしかなく、夜歩きには提灯が必需品だった。とはいえ、提灯の明かりは遠くからはよく目立つが、足元の狭い範囲をぼんやり照らすだけの頼りない照明であり蝋燭代も掛かる。誰もが気楽に夜歩きができたわけではなかった。

 

 燈火というものが大変に貴重で、庶民で蝋燭を用いる家などはまずなかったのである。人差し指ほどの蝋燭の値段が、現代の時価で数千円もしたといわれる。大店でも裏店でも屋内の夜なべ仕事は、油皿に藺草(いぐさ)から抜き出して作った燈芯を浸した明かりを使った。細かな仕事には燈芯を二本用いたが、現代の書物などは全く読めない暗さである。それを贅沢と考える時代だった。居酒屋でさえ油代を考えて、五つ(午後八時頃)には暖簾を下ろし灯を消したそうだ。現代人は、その頃のお天道様の有難さと夜明けの待ち遠しさ、朝の光の眩しさを想像できるだろうか。

 

 「江戸の町の屋根や壁が、夜の暗さから解き放されて、それぞれが自分の形と色を取り戻すころ、市蔵は多田薬師裏にある窖(あなぐら)のような賭場を出て、ゆっくり路を歩き出す。町はまだ眠っていて、何の物音も聞こえず、人影も見えなかった。市蔵は多田薬師の長い塀脇を、川端の方に歩いて行く。路はまだ地表に白い靄のようなあいまいな光を残しているが、夕方と違って、歩いて行く間に足元のあいまいなものが次第に姿を消し、かわりに鋭い光が町を満たして行く。

 

 大川の河岸に出ると、その感じは一層はっきりする。川向こうの諏訪町、駒形町、材木町あたりの家々の壁は、日がのぼりかけている空の色を映して、うっすらと朱に染まっている。川の水は、こちら岸に近いところは、まだ夜の気配を残してか、黒くうねっているが、向こう岸に近いあたりは青く澄んで見える。そして日の光が、背後から市蔵を刺し貫くのは、大川橋を渡り切る頃である。河岸にある竹町の自身番は、まだ表に懸け行灯をともしたままだった。市蔵がその前を通る頃、腰が曲がりかけた町雇いの老人が、行灯の灯を消したり、番所の前を掃いたりしていることもあるが、その日は、中で話し声がするだけだった。

 

 空気は澄んで、冷たかった。市蔵はゆっくり河岸を歩いて行く。澄んだ空気を深々と肺の奥まで吸い込むと、泥が詰まったように重い頭や、鋭くささくれ立った気分が少ずつ薄められて行く気がする。市蔵が、いまのようなやくざな商売でなく、もっとまともな仕事をして暮らすことだって、やろうと思えば出来るのだ、とふっと思うのはこういう朝だった。むろんその考えは、市蔵の胸をほんのしばらくの間、清すがしい気分にするだけのことに過ぎない。じっさいには、市蔵は賭場の壷振りで飯を食っている男であり、賭場の匂いが身体にしみついてしまった人間だった。

 

 そして市蔵は、ふだん壷振りが性に合っていると思い、その仕事に格別の不満を持っていなかった。いまごろ堅気の暮らしに戻れる筈がないことも、承知している。だが僅かな間にしろ、市蔵が、賭場の壷振りらしくないことを考えるのも事実だった。毎朝そうだというわけではなかった。雨が降っている朝などは、疲労と眠気のために、ただ布団に潜りこんで眠ることだけを考えて、わずかな小石に躓いたりして帰るのである。だがその朝はすばらしい朝だった。暁の光の中から、町が眼ざめて活きいきと立ち上がろうとしているのを感じた。 ・・・気分のいい朝だ。これから眠りに帰るのを、気持ちの隅でうしろめたく思いながら、市蔵はそう思った。 (略)」   (  )内ルビ:筆者

( 出典:「暁のひかり 藤沢 周平 著  文春文庫」所収 『暁のひかり』 )

 

第二章−4 女の想い

 母親というものは、寝ても覚めても我が子のことを想い続け、胎児の頃から一人前になる迄に30万回も想うのだという。たとえどんな子であれ、その全てを無条件で受け容れ片時も忘れない。

 深い慈愛を不断に注ぎ続けるが、言動に顕すのはその何万分の一に過ぎず、殆どは目には見えない。一人秘かに様々な想いを巡らせ、絶えず祈り願って胸の奥に畳んでいる。献身的な真情の細やかさと、言葉に出来ない繊細微妙な心の働きは、男が到底及ばぬ女だけの尊い本性である。男との恋においても、内面では絶えずいろいろな想いが複雑に交錯するもののようだ。

 

 江戸時代、女性の生き方は限られ、自由も自立も困難で不安定な立場だった。女の幸せは良き伴侶に出会い、妻として迎えられることであり、愛する夫と相思愛和の家庭を築くことであった。

 女は、好きな男であればあるほど、相手に好かれる女でありたいと努め、男の決定的な言葉をじっと待つ。幸せを求めて湧き上がる強い想いを内に秘め、我侭や自己愛を厳しく慎み相手にひたすら献身的に尽くすのだが、その内面では実にいろいろな想いが浮き沈みしているものである。目に見えない女の心の中を、いきいきと描いた女性作家の作品の一部をご紹介します。

 

 「小野崎源三郎は今、感応寺の境内にいる。別にそう言い置いて出掛けたわけではないが、煙草屋の唐紙を貼ってやる約束を明日にのばして、源三郎の行くところといえば、富突(とみつき)の興行が行われている寺社の境内しかなかった。『ちょいとそこまで探しに行ってきます』と、おしのは土間に降りて源三郎をたずねてきた武士をふりかえった。山川勘吾と名乗った朴訥な感じのする武士は少々心配そうな顔になった。江戸詰めを仰せつかって半年というから、おしのの『ちょいとそこまで』を、国許の『そこまで』と同じだとおもったのかもしれなかった。

 

 故郷の『ちょいとそこまで』は、上野下谷町から京橋、芝あたりまでを言うと、源三郎はよく笑っていたものだ。公用で使いに出たついでに立ち寄ったらしい勘吾は、一刻以上も待たされるようになっては困ると思ったのかもしれない。『すぐそこですよ。谷中の感応寺ってとこ』 『感応寺? 富突か』 『いえ、そうじゃないんですけど・・・あの、ほら、富突がどんなものか見たいって言いなすって・・・』 自分でもわけのわからないことを言っていると思った。おしのは、四半刻ほど前に、この長屋へ来た。出戻りで、実家の『せせらぎ』という料理屋で働いているのだが、源三郎の好物である谷中生姜のはしりが店に入ったので、四、五本引き抜いて持ってきたのだった。

 

 が、源三郎はいなかった。出入り口の腰高障子は開け放されたまま、煙草屋の唐紙に使うらしい紙も文机にのせたままになっていて、よほど急いで出かけたようだった。それでも念のために、長屋の木戸から二軒目にある煙草屋へいって、おしのは、源三郎がきていないかと尋ねてみた。

 『きているものかね』と、煙草屋の女房は、簪(かんざし)の足で髷の根元を掻きながら答えた。『今日は、感応寺の富突だよ。源さんらしくもない、富突の日を間違えて、うちと約束しちまったようだけど、お腹の具合が悪いとか何とか言ってね、明日にのばしてくれと頼みにきたよ』 しょうがないから、いいと答えたと、煙草屋の女房は苦笑した。

 

 『まったく、源さんにも困ったものだねえ。富籤が好きなのはいいけどさ、稼いだお金をみんな富籤につぎ込んじまうんだもの。尋常じゃないよ。 おしのちゃん、源さんの女房になるおつもりなら、きつく言っておやり』 あれは病だから・・・と、あまり弁解になっていない弁解をして、おしのは、源三郎の長屋に戻ってきた。帰りを待つ間に掃除をしておこうと、手桶に水を汲んできたところへ、この山川勘吾という武士があらわれたのだった。『ゆえあって、藩の名は言えぬが』と、武士は、源三郎と同じことを言った。言葉にも、源三郎と同じ訛りがあった。

 

 源三郎が下谷町に住みついてからざっと十五年、どこの藩士であったのか、永の暇(いとま)の理由は何であったのかなど、当人が話したがらぬことを根ほり葉ほり聞こうとした者はいないが、 五、六万石の大名家に仕えていて、二百石近い知行地をもらっていた上士だったらしいとは、皆、何となく知っている。その源三郎を、山川勘吾という武士が、やっと見つけたと言ってたずねてきたのである。江戸詰めになってからの半年間、知らせたいことがあって、源三郎を探しつづけていたという。帰参が叶ったのだと、おしのは思った。親しい友人だったという武士が懸命に源三郎を探しまわるのは、殿様の怒りがとけたからとしか考えられなかった。

 

 それなのに、感応寺の富突を見に行ったと口を滑らせてしまったのだった。江戸の人々を熱狂させている興行を、源三郎が見に行っても不思議はないのだが、勘吾は、感応寺と聞いただけでいやな顔をした。見るからに真面目そうな勘吾にとって、富籤に熱中する江戸の人達は見るに耐えないものだったのかもしれず、源三郎の日常を近所の人達に聞いて、無類の富籤好きであるとわかれば、帰参の話を引っ込めてしまうかもしれなかった。  『あの、言っときますけど、源さんは、ほんとに見に行っただけですからね』 

 

 感応寺まで走って行くつもりで裾をからげ、下駄を手に持ったおしのを、勘吾は戸惑ったような表情で呼びとめた。『おぬし、源三郎のご妻女ではないのか』 『ごさいじょ ?』  『その、女房ではないのか』 何を言いなさるんですよという言葉が唇の外へ出てこぬまま、おしのは、薄いあばたのある勘吾の顔を見つめた。源三郎は今年三十九歳、妻子のいない方がおかしい年齢だったし、また、国許に妻子がいるとも言っていたのである。『ご妻女なんてものじゃない、ただの出戻り女ですよ。放っておくと源さんに蛆がわきそうだから、掃除洗濯を勝手にひきうけていますけど』

 

 身のまわりの世話をしてやるようになって一年近くたつが、いまだに手を握ったことすらない。おしのが酔ったふりをしてしなだれかかっても、源三郎は突き放しもしないかわりに、抱き寄せてもくれなかった。おしのはそれを、国許へ置いてきたという妻への遠慮だと思っていた。源三郎もおしのに好意を持っていることは勘でわかる。その気持ちにも、おしのの胸のうちにも目をつぶってしまうのは、妻への気持ちが強いのだと思っていた。が、勘吾は、今の今までおしのを源三郎の女房だと思っていたらしい。そういえば、挨拶も丁寧だったし、おしのがいれた茶を妙に恐縮しながら飲んでいた。『これがご妻女から源三郎を奪った女』といった表情は、まったく見せなかったのである。

 

 ことによると・・・と、おしのは思った。ことによると、源三郎は妻と別れているのではあるまいか。永の暇となったとき、気を昂ぶらせた妻に罵られ、女はこりごりだと思っていて、おしのが誘っても気づかぬふりをするほど用心深くなっているのではないだろうか。『別れていたのなら・・・』 おしのは嬉しい。 国許に妻子がいると思えばこそ、胸許をつかんで『じれったい人だねえ』と言うのも控えていたし、『掃除洗濯をしてくれる重宝な女だとしか、思っていないんですか』とからむのも我慢していたのである。が、独り身なら、遠慮することはない。

 おしのは、源三郎と出会った時を思い出した。こわれた家具の直しから唐紙の貼替まで、金がなければ丼いっぱいのめしと簡単な惣菜でひきうけてくれる浪人がいると聞き、踏台をかかえてたずねていったのだった。いいよ・・・と、源三郎は言った。彼は、おしのの持っていった踏台をひっくり返して眺めていたが、その間、おしのは源三郎を見つめていた。我に返った時には、胸が痛かった。息をするのを忘れていた・・・いや、していたのだろうが、雷に打たれたように身じろぎもできず、息さえもとめていたような気がしたのである。 

 

 十六歳で嫁いだ商家の若旦那も、決して嫌いではなかったが、そんな不思議な気持ちに襲われたことは一度もなかった。だからこそ、子供が生まれぬからと離縁を言い渡された時、引き剥がせるものなら引き剥がしてみろと、亭主に抱きつく気持ちが起こらなかったのだろう。

 『今晩、源さんに言ってやろ』と、おしのは、貼りかけの傘を見ながら思った。わたしは死ぬほど源さんが好きなんですよ。傘貼りも唐紙の貼替も放ったらかしにして富籤に出かけちまうけど、それが源さんなのだと思えば、腹も立たない。こんなに滅茶苦茶に好きなんだから、ねえ、早くどうにかして下さいな。・・・

 

 気がつくと勘吾が苦笑していた。おしのの胸のうちを読みとったようだった。『そろそろ屋敷へ帰らねばならぬ。感応寺はすぐそこでも、あの人混みの中では源三郎を探すのは大変だろう。富籤のない日に、出直してくる』 勘吾が立ち上がった。あわてて履物を揃えようとして、おしのは、自分が裸足のままでいることを思い出した。『よい人とお見受けした』と、勘吾が言った。『源三郎に伝えてください。浅江殿は、昨年の春に亡くなられたと』 『え?』 『浅江殿、源三郎の別れたご妻女だ。昨年の春に亡くなられた』 おしのは、自分の身内の死を告げられたように息をのんだ。

 

 源三郎を罵ったのかもしれぬなどと、一瞬でも思ったのが申し訳なかった。飽きも飽かれもせぬうちに、永の暇が二人の間を引き裂いたのかもしれず、とすれば、妻は夫に一目会いたいと思いながらあの世へ旅立って行ったにちがいない。源三郎も、その知らせを聞けば、知らぬこととはいえ、富籤にうつつをぬかしていた日々を悔いるだろう。涙がにじんできた。が、これで当分、『早くどうにかして下さいな』とは言えなくなった。おしのは、目頭を小指の先で押さえながら、妻の喪に服す源三郎を想像した。 (略) 」 (  )内ルビ:筆者

(出典:「慶次郎縁側日記 “再会”  北原 亜以子 著  新潮文庫 」所収 『最良の日』 )

 

■連載第11回:第二章 江戸の情景  (その3)暁の大川端  (その4)女の想い 

第二章−3 暁の大川端

 夜といえば暗いものにきまっているが、どんな片田舎にも電灯が普及した現代、人は夜の本当の暗さを忘れてしまっている。江戸の頃は、暮れ六つ(午後六時)を境に町の姿は一変した。殆どの店は戸を閉め、せいぜい店先に立つ看板代わりの行燈のところが僅かに道を照らすのみで、月の光が一番の明るさであった。闇夜には、気配で辺りを察するしかなく、夜歩きには提灯が必需品だった。とはいえ、提灯の明かりは遠くからはよく目立つが、足元の狭い範囲をぼんやり照らすだけの頼りない照明であり蝋燭代も掛かる。誰もが気楽に夜歩きができたわけではなかった。

 

 燈火というものが大変に貴重で、庶民で蝋燭を用いる家などはまずなかったのである。人差し指ほどの蝋燭の値段が、現代の時価で数千円もしたといわれる。大店でも裏店でも屋内の夜なべ仕事は、油皿に藺草(いぐさ)から抜き出して作った燈芯を浸した明かりを使った。細かな仕事には燈芯を二本用いたが、現代の書物などは全く読めない暗さである。それを贅沢と考える時代だった。居酒屋でさえ油代を考えて、五つ(午後八時頃)には暖簾を下ろし灯を消したそうだ。現代人は、その頃のお天道様の有難さと夜明けの待ち遠しさ、朝の光の眩しさを想像できるだろうか。

 

 「江戸の町の屋根や壁が、夜の暗さから解き放されて、それぞれが自分の形と色を取り戻すころ、市蔵は多田薬師裏にある窖(あなぐら)のような賭場を出て、ゆっくり路を歩き出す。町はまだ眠っていて、何の物音も聞こえず、人影も見えなかった。市蔵は多田薬師の長い塀脇を、川端の方に歩いて行く。路はまだ地表に白い靄のようなあいまいな光を残しているが、夕方と違って、歩いて行く間に足元のあいまいなものが次第に姿を消し、かわりに鋭い光が町を満たして行く。

 

 大川の河岸に出ると、その感じは一層はっきりする。川向こうの諏訪町、駒形町、材木町あたりの家々の壁は、日がのぼりかけている空の色を映して、うっすらと朱に染まっている。川の水は、こちら岸に近いところは、まだ夜の気配を残してか、黒くうねっているが、向こう岸に近いあたりは青く澄んで見える。そして日の光が、背後から市蔵を刺し貫くのは、大川橋を渡り切る頃である。河岸にある竹町の自身番は、まだ表に懸け行灯をともしたままだった。市蔵がその前を通る頃、腰が曲がりかけた町雇いの老人が、行灯の灯を消したり、番所の前を掃いたりしていることもあるが、その日は、中で話し声がするだけだった。

 

 空気は澄んで、冷たかった。市蔵はゆっくり河岸を歩いて行く。澄んだ空気を深々と肺の奥まで吸い込むと、泥が詰まったように重い頭や、鋭くささくれ立った気分が少ずつ薄められて行く気がする。市蔵が、いまのようなやくざな商売でなく、もっとまともな仕事をして暮らすことだって、やろうと思えば出来るのだ、とふっと思うのはこういう朝だった。むろんその考えは、市蔵の胸をほんのしばらくの間、清すがしい気分にするだけのことに過ぎない。じっさいには、市蔵は賭場の壷振りで飯を食っている男であり、賭場の匂いが身体にしみついてしまった人間だった。

 

 そして市蔵は、ふだん壷振りが性に合っていると思い、その仕事に格別の不満を持っていなかった。いまごろ堅気の暮らしに戻れる筈がないことも、承知している。だが僅かな間にしろ、市蔵が、賭場の壷振りらしくないことを考えるのも事実だった。毎朝そうだというわけではなかった。雨が降っている朝などは、疲労と眠気のために、ただ布団に潜りこんで眠ることだけを考えて、わずかな小石に躓いたりして帰るのである。だがその朝はすばらしい朝だった。暁の光の中から、町が眼ざめて活きいきと立ち上がろうとしているのを感じた。 ・・・気分のいい朝だ。これから眠りに帰るのを、気持ちの隅でうしろめたく思いながら、市蔵はそう思った。 (略)」   (  )内ルビ:筆者

( 出典:「暁のひかり 藤沢 周平 著  文春文庫」所収 『暁のひかり』 )

 

第二章−4 女の想い

 母親というものは、寝ても覚めても我が子のことを想い続け、胎児の頃から一人前になる迄に30万回も想うのだという。たとえどんな子であれ、その全てを無条件で受け容れ片時も忘れない。

 深い慈愛を不断に注ぎ続けるが、言動に顕すのはその何万分の一に過ぎず、殆どは目には見えない。一人秘かに様々な想いを巡らせ、絶えず祈り願って胸の奥に畳んでいる。献身的な真情の細やかさと、言葉に出来ない繊細微妙な心の働きは、男が到底及ばぬ女だけの尊い本性である。男との恋においても、内面では絶えずいろいろな想いが複雑に交錯するもののようだ。

 

 江戸時代、女性の生き方は限られ、自由も自立も困難で不安定な立場だった。女の幸せは良き伴侶に出会い、妻として迎えられることであり、愛する夫と相思愛和の家庭を築くことであった。

 女は、好きな男であればあるほど、相手に好かれる女でありたいと努め、男の決定的な言葉をじっと待つ。幸せを求めて湧き上がる強い想いを内に秘め、我侭や自己愛を厳しく慎み相手にひたすら献身的に尽くすのだが、その内面では実にいろいろな想いが浮き沈みしているものである。目に見えない女の心の中を、いきいきと描いた女性作家の作品の一部をご紹介します。

 

 「小野崎源三郎は今、感応寺の境内にいる。別にそう言い置いて出掛けたわけではないが、煙草屋の唐紙を貼ってやる約束を明日にのばして、源三郎の行くところといえば、富突(とみつき)の興行が行われている寺社の境内しかなかった。『ちょいとそこまで探しに行ってきます』と、おしのは土間に降りて源三郎をたずねてきた武士をふりかえった。山川勘吾と名乗った朴訥な感じのする武士は少々心配そうな顔になった。江戸詰めを仰せつかって半年というから、おしのの『ちょいとそこまで』を、国許の『そこまで』と同じだとおもったのかもしれなかった。

 

 故郷の『ちょいとそこまで』は、上野下谷町から京橋、芝あたりまでを言うと、源三郎はよく笑っていたものだ。公用で使いに出たついでに立ち寄ったらしい勘吾は、一刻以上も待たされるようになっては困ると思ったのかもしれない。『すぐそこですよ。谷中の感応寺ってとこ』 『感応寺? 富突か』 『いえ、そうじゃないんですけど・・・あの、ほら、富突がどんなものか見たいって言いなすって・・・』 自分でもわけのわからないことを言っていると思った。おしのは、四半刻ほど前に、この長屋へ来た。出戻りで、実家の『せせらぎ』という料理屋で働いているのだが、源三郎の好物である谷中生姜のはしりが店に入ったので、四、五本引き抜いて持ってきたのだった。

 

 が、源三郎はいなかった。出入り口の腰高障子は開け放されたまま、煙草屋の唐紙に使うらしい紙も文机にのせたままになっていて、よほど急いで出かけたようだった。それでも念のために、長屋の木戸から二軒目にある煙草屋へいって、おしのは、源三郎がきていないかと尋ねてみた。

 『きているものかね』と、煙草屋の女房は、簪(かんざし)の足で髷の根元を掻きながら答えた。『今日は、感応寺の富突だよ。源さんらしくもない、富突の日を間違えて、うちと約束しちまったようだけど、お腹の具合が悪いとか何とか言ってね、明日にのばしてくれと頼みにきたよ』 しょうがないから、いいと答えたと、煙草屋の女房は苦笑した。

 

 『まったく、源さんにも困ったものだねえ。富籤が好きなのはいいけどさ、稼いだお金をみんな富籤につぎ込んじまうんだもの。尋常じゃないよ。 おしのちゃん、源さんの女房になるおつもりなら、きつく言っておやり』 あれは病だから・・・と、あまり弁解になっていない弁解をして、おしのは、源三郎の長屋に戻ってきた。帰りを待つ間に掃除をしておこうと、手桶に水を汲んできたところへ、この山川勘吾という武士があらわれたのだった。『ゆえあって、藩の名は言えぬが』と、武士は、源三郎と同じことを言った。言葉にも、源三郎と同じ訛りがあった。

 

 源三郎が下谷町に住みついてからざっと十五年、どこの藩士であったのか、永の暇(いとま)の理由は何であったのかなど、当人が話したがらぬことを根ほり葉ほり聞こうとした者はいないが、 五、六万石の大名家に仕えていて、二百石近い知行地をもらっていた上士だったらしいとは、皆、何となく知っている。その源三郎を、山川勘吾という武士が、やっと見つけたと言ってたずねてきたのである。江戸詰めになってからの半年間、知らせたいことがあって、源三郎を探しつづけていたという。帰参が叶ったのだと、おしのは思った。親しい友人だったという武士が懸命に源三郎を探しまわるのは、殿様の怒りがとけたからとしか考えられなかった。

 

 それなのに、感応寺の富突を見に行ったと口を滑らせてしまったのだった。江戸の人々を熱狂させている興行を、源三郎が見に行っても不思議はないのだが、勘吾は、感応寺と聞いただけでいやな顔をした。見るからに真面目そうな勘吾にとって、富籤に熱中する江戸の人達は見るに耐えないものだったのかもしれず、源三郎の日常を近所の人達に聞いて、無類の富籤好きであるとわかれば、帰参の話を引っ込めてしまうかもしれなかった。  『あの、言っときますけど、源さんは、ほんとに見に行っただけですからね』 

 

 感応寺まで走って行くつもりで裾をからげ、下駄を手に持ったおしのを、勘吾は戸惑ったような表情で呼びとめた。『おぬし、源三郎のご妻女ではないのか』 『ごさいじょ ?』  『その、女房ではないのか』 何を言いなさるんですよという言葉が唇の外へ出てこぬまま、おしのは、薄いあばたのある勘吾の顔を見つめた。源三郎は今年三十九歳、妻子のいない方がおかしい年齢だったし、また、国許に妻子がいるとも言っていたのである。『ご妻女なんてものじゃない、ただの出戻り女ですよ。放っておくと源さんに蛆がわきそうだから、掃除洗濯を勝手にひきうけていますけど』

 

 身のまわりの世話をしてやるようになって一年近くたつが、いまだに手を握ったことすらない。おしのが酔ったふりをしてしなだれかかっても、源三郎は突き放しもしないかわりに、抱き寄せてもくれなかった。おしのはそれを、国許へ置いてきたという妻への遠慮だと思っていた。源三郎もおしのに好意を持っていることは勘でわかる。その気持ちにも、おしのの胸のうちにも目をつぶってしまうのは、妻への気持ちが強いのだと思っていた。が、勘吾は、今の今までおしのを源三郎の女房だと思っていたらしい。そういえば、挨拶も丁寧だったし、おしのがいれた茶を妙に恐縮しながら飲んでいた。『これがご妻女から源三郎を奪った女』といった表情は、まったく見せなかったのである。

 

 ことによると・・・と、おしのは思った。ことによると、源三郎は妻と別れているのではあるまいか。永の暇となったとき、気を昂ぶらせた妻に罵られ、女はこりごりだと思っていて、おしのが誘っても気づかぬふりをするほど用心深くなっているのではないだろうか。『別れていたのなら・・・』 おしのは嬉しい。 国許に妻子がいると思えばこそ、胸許をつかんで『じれったい人だねえ』と言うのも控えていたし、『掃除洗濯をしてくれる重宝な女だとしか、思っていないんですか』とからむのも我慢していたのである。が、独り身なら、遠慮することはない。

 おしのは、源三郎と出会った時を思い出した。こわれた家具の直しから唐紙の貼替まで、金がなければ丼いっぱいのめしと簡単な惣菜でひきうけてくれる浪人がいると聞き、踏台をかかえてたずねていったのだった。いいよ・・・と、源三郎は言った。彼は、おしのの持っていった踏台をひっくり返して眺めていたが、その間、おしのは源三郎を見つめていた。我に返った時には、胸が痛かった。息をするのを忘れていた・・・いや、していたのだろうが、雷に打たれたように身じろぎもできず、息さえもとめていたような気がしたのである。 

 

 十六歳で嫁いだ商家の若旦那も、決して嫌いではなかったが、そんな不思議な気持ちに襲われたことは一度もなかった。だからこそ、子供が生まれぬからと離縁を言い渡された時、引き剥がせるものなら引き剥がしてみろと、亭主に抱きつく気持ちが起こらなかったのだろう。

 『今晩、源さんに言ってやろ』と、おしのは、貼りかけの傘を見ながら思った。わたしは死ぬほど源さんが好きなんですよ。傘貼りも唐紙の貼替も放ったらかしにして富籤に出かけちまうけど、それが源さんなのだと思えば、腹も立たない。こんなに滅茶苦茶に好きなんだから、ねえ、早くどうにかして下さいな。・・・

 

 気がつくと勘吾が苦笑していた。おしのの胸のうちを読みとったようだった。『そろそろ屋敷へ帰らねばならぬ。感応寺はすぐそこでも、あの人混みの中では源三郎を探すのは大変だろう。富籤のない日に、出直してくる』 勘吾が立ち上がった。あわてて履物を揃えようとして、おしのは、自分が裸足のままでいることを思い出した。『よい人とお見受けした』と、勘吾が言った。『源三郎に伝えてください。浅江殿は、昨年の春に亡くなられたと』 『え?』 『浅江殿、源三郎の別れたご妻女だ。昨年の春に亡くなられた』 おしのは、自分の身内の死を告げられたように息をのんだ。

 

 源三郎を罵ったのかもしれぬなどと、一瞬でも思ったのが申し訳なかった。飽きも飽かれもせぬうちに、永の暇が二人の間を引き裂いたのかもしれず、とすれば、妻は夫に一目会いたいと思いながらあの世へ旅立って行ったにちがいない。源三郎も、その知らせを聞けば、知らぬこととはいえ、富籤にうつつをぬかしていた日々を悔いるだろう。涙がにじんできた。が、これで当分、『早くどうにかして下さいな』とは言えなくなった。おしのは、目頭を小指の先で押さえながら、妻の喪に服す源三郎を想像した。 (略) 」 (  )内ルビ:筆者

(出典:「慶次郎縁側日記 “再会”  北原 亜以子 著  新潮文庫 」所収 『最良の日』 )



■連載第12回(最終回):第二章 江戸の情景  (その5)人情裏長屋  (その6) 居酒屋

第二章−5 人情裏長屋

 この物語に初めて出会ったのは数年前のことです。ここに引用したくだりを読んだ時「我が意を得たり」と共感を覚えながら思い出した記憶があります。
 
 社命で出張をしていた頃(たいてい地方都市へ数泊の一人旅)、仕事のあとは町を探訪しながら、手ごろな飲食店でゆっくり土地の味を楽しむのが常でした。午後八時頃に商店の灯が消え人通りがなくなる土地柄ですから宵の口から出かけます。飲食店は客が立て込まない時間なので自由に席を選べますが、一番いい場所や常連客が座りそうな位置は遠慮して、目障りにならない地味な良い加減の席に着きます。注文の品も出来るだけ“郷に従った”のは言うまでもありません。
 
 小料理屋、鮨屋、炉端焼き、赤提灯、どこでもそうしていましたが、一見客・よそ者として卑屈になっていた訳ではないのです。その店と地元客・馴染み客に敬意を表し、大きな顔をせずに「ちょっとお邪魔致します」というくらいの気持ちでした。地場の飲食店というものは、土地の人々が疲れを癒してくつろぐ大事な居場所であり、気心知れた同士の溜まり場になっています。
 
 店の雰囲気やもてなし方や品書き、そして独特の居心地なども、元はといえばいつも出入りする客が時間を掛けて作り上げたものであり、店はそういう風に出来あがってきているものです。
 一見客やよそ者が、この肌触りとかけ離れた目障りな“異物”になっては誠に申し訳ないことです。今風に言えば、土地の人々のコミュニティーにしばしの間混ぜていただくわけですから、その場所や文化、持ち味に同化する気持ちで臨むのが外来者のせめてもの礼儀ではないでしょうか。
 
 コミュニティーは「村落共同体」と言い換えてもよいと思いますが、いちいち看板を出してはいないもののいたるところに有って、前記のような性格が共通点です。隣組や町内会、自治会などもその一つ。そうした場でも「元○○会社 △△(肩書き)」など前歴をことさら言いたがる無粋者が居る、というのはよくある話ですが、それがコンプレックスの屈折した衝動によるものであるにしても、状況判断と公共観を欠いた粗雑な神経の持ち主は、周囲の顰蹙を買い拒否反応を招きます。
 
 江戸の庶民が密集して住んでいた裏長屋は、まさに「村落共同体」の典型でした。住いと家政は個々別々でも、共用施設(後架=便所、井戸、ごみ溜めなど)は連帯責任で管理され、井戸浚い、どぶ掃除、ごみの搬出も定期的に住民総出で行われ、日常の助け合いや面倒見も細やかでした。プライバシーは否応なく曝け出され、互いの様子が手に取るように分かるから、住人同士が身の丈の視線と分相応の物差しを共有する平らな関係で、お互い様の目配り・気遣い・庇い合いの生活でした。武士でも浪人は持ち家を許されないため、町人と同じ長屋に住み暮らしていました。
 
 「松村信兵衛の住いは木挽町一丁目の十六店(たな)という裏長屋であるが、殆ど寝るとき以外は居たためしがない。会いたければ京橋炭屋河岸の丸源という居酒屋へゆけばいい。彼はいつも酔っている。(略) 浪人だということは慥(たし)かだし、これといって稼ぐ風も見えないが、年中酒びたりの上に相長屋で困っている者があるとよく面倒をみる。 
 
 長屋うちで稼ぎ手に寝られるとか、仕事にあぶれて困る者などがあると、さりげなく米味噌を届けさせたり銭を持っていって遣ったりする。『どうせ持っていれば飲んじまうんだ、困るときは誰でもお互いさ』 決して相手に遠慮や引け目を感じさせないさらっとした態度である。 
 
 年はまだ三十になるまい。目にはちょっと凄みはあるが笑うと人なつっこい愛嬌が出て子供たちにも人気がある。いつも垢のつかない着物を着て、髭も月代(さかやき)もきれいに剃っているから、素面のときはなかなか凛とした人品だ。こういうわけで、もうずっと以前から松村信兵衛は長屋全体の『先生』と慕われていた。 
 
 酒も好きなのだろうが、何か酔わないじゃいられないようなことがあるらしい、というのが長屋連中の推量である。酔い過ぎたときとか醒めているときなどに、信兵衛のもらす独り言は絶望的であり冷笑と侮蔑に汚れている。その目つきや表情には現在の貧しい環境のほかの凡ゆるもの、特に権力や富や威厳に対する否定と嘲弄の色が明らかであった。
 
 居酒屋の丸源で飲むときには、いちばん安い酒にいちばん安い肴と定(きま)っている。心付けは法外なくらい置くが、酒肴は必ずいちばん安いのを誂える、常連の熊公 八公らと近づきになってから盃をさすのに、『すまないが一杯つきあってくれ』と、下手に出るのが定(きま)りだ。初めのうちは誰にもこの謙遜の意味がわからなかった。すると、或る宵のことだったが三十二、三になる“ふり” の客が一人まぎれ込んで来た。どこかの通い番頭というものらしい。
 
 髪を油で光らせて、やわらか物を着て、襦袢の衿で首を絞めるような恰好で、雪駄の裏金をちゃらちゃらさせて入って来るなりから店の中を眺めまわしたが、『このうちでいちばん高い酒を持っといで』と黄色いような声を出した。それから壁に貼った書き出しや、そこにあるつけ板の品書きを見ていたが、『このうちじゃあここに書いてある物っきり出来ないのかい、鯛の刺身とか蒲焼とか鱸の洗いぐらい無くっちゃ飲めないじゃあないか、酒の肴は“きどり”といって少しぐらい高価(たか)くってもきれいごとでないとうまくないよ』 
 
 『へえ、相済みません』 亭主の又平が温和しく頭を下げて、・・・・『なべ公お銚子が上がった』つきだしに燗徳利をのせて盆を出すなべ公という十三になる小僧が運んで来て置くとたんに、『この酒はいくらだい』ときた。なべ公が恐る恐る『幾ら幾らです』という。こっちは盃でちょいと舐めてみて、軽侮に堪えないという顔をする。『値段だけのもんだね、これがいちばん高価いのかい、もっと高価いお酒はないのかい』 なべ公は尊敬のあまり水っ洟をすすった。『ええ、これがお客さんいちばん高価いんです、お菜はなにを上りますか』 『なにをといったってこれじゃあ一つも食べられるものはないじゃないか、親方にそう云っておくれ、神田川から鰻でもとれないかって』
 
 店の中はしんとなった。虎も熊公も竹造も八も“いかれ”のかたちである、この手合いはふだん鼻っぱしの強いことを云うくせに、金持ちとか厚顔(あつかま)しい人間の前へ出るとだらしもなくしぼんでしまう。 ― そうでもねえ、またどんなことで世話になるかも知れねえから。こう考える癖が身に付いている。自分一人では生きられないということを知っているからであるが、彼等はこいつを逆手にとってのさばるのが通例だ。 ・・・みんな肩をすぼめて、話し声もちょっと途絶えた。
 
 そのとき松村信兵衛が、『おいそこの番頭さん』と呼びかけたのである、『おめえ店の銭箱から幾らくすねて来たか知らねえが、一世一代の積もりなら座敷のある家へ這込んだらどうだ、ここは居酒屋といって地道に稼いだ人間が汗の匂いのする銭でうちわにつつましく飲む処だぜ、済みません場違いですがお仲間に入れて下さい、こういう気持ちで来るんならお互いさまよ、みんなの飲む酒みんなの食べる肴で、ご馳走さまと云って飲むがいい、なんだ、白痴(こけ)が火の見櫓へ登りゃあしめえし、高え高えが聞いて呆れらあ、気の毒だが勘定は払ってやるから出ていってくれ、まごまごすると向こう脛を・・・』
 
 その者は一議に及ばず退散した。亭主もなべ公も熊も八も虎も喝采した。そして、松村先生の謙遜の意味が初めてわかったのである。この店は地道に稼ぐ人間が汗の匂いのする銭でつつましく飲む処だ。場違いですがお仲間に入れて下さい。つまりそれである。従って、こういう処へ来てまで人を見くだしたり、金をひけらかしたりする人間には容赦しないのであった。 (略)」
(出典:「人情裏長屋  山本 周五郎 著 新潮文庫」所収  『人情裏長屋』 ( )内ルビ:筆者)
 
第二章−6 居酒屋
 文政年間(1818年〜1829年)の大工の手間賃は一日五百文前後、これで夫婦と子供一人が暮らして寝酒が飲める程度だったという。普通の酒は一合二十文前後で酒屋から買えた。当時の江戸の一人当たり酒消費量は現在と殆ど同じだったらしい。男の単身者が大勢集まっていた江戸には当然酒を飲む場所も多かった。料亭・料理屋、各種の茶屋、蕎麦屋、居酒屋、屋台店などであるが、庶民が外で飲む場所は横丁の安い居酒屋か屋台店である。
 
 当時の居酒屋は夕餉前の時間に客が立て込んだ。前回、燈火の話でも触れた通り、普段、五つ(午後八時頃)には暖簾を下ろしたからである。名のある料亭ならいざ知らず、横丁の居酒屋が夜遅くまで安酒を飲ませていては油代になる筈がなかった。それより遅く庶民が飲むとすれば、いわゆる「夜あかし」という、立ち飲みか仮設の床几で簡便に飲む屋台店しかないのである。
 
 居酒屋の様子はTVや映画にもよく登場するが、間近にじっくりと見せられることはあまりない。
一人の岡っ引きが秋(旧暦十月:現代の十一月)の夜更けに、他の客が居ない馴染みの親爺の店で一人飲む情景に、しがない居酒屋の中の様子が細かく描かれています。店の佇まい、岡っ引きのわだかまった心理、親父とのやり取り、これらが相まって、渋味の利いた江戸居酒屋の秀逸な風情であり、「・・・・・・酒は静かに飲むべかりけり」の季節感を絵に描いたような場面です。
 
 「夜も更けて、その暗い居酒屋の片隅に、岡っ引きがひとり、飴色の醤油樽に腰を据え、店の親父を相手に酒を飲んでいる。親父はとうに六十をすぎた小柄な老人で、頭の上に乗っている髷は銀糸色、背中もずいぶんと丸くなっている。岡っ引きのほうは三十後半、ようやく親分と呼ばれることが板についてきたという風情だ。
 
 客が十人も入れば満杯という店だが、この時刻になると、さすがにもう誰もいない。夜明け前には縄のれんの代わりに一膳飯屋の看板をあげるという店だから、いつもならとっくに店じまいのはずなのだが、ふた月に一度、岡っ引きが店の隅のこの樽に腰を落ち着けに来る夜は、親父もとくに、彼ひとりの長い酒に付き合うことになっている。それがもう何年も続いてきた。
 
 岡っ引きは鮫の皮の煮こごりだけを肴に、熱い燗酒を手酌でちびちびとやっていた。染付けの銚子がひとつ空くと、親父がすいと手を伸ばし、新しい熱いのを代わりに置く。それが三本目になったら止めてくれというのが、岡っ引きのいつもの注文だった。ふたりはあまり話をしなかった。岡っ引きは黙々と飲み、親父も静かに洗い物や明日の仕込みにかかっている。時おり包丁の鳴る音がする。黄色味がかった行灯の明かりの下で、湯気がゆらゆら揺れている。
 
 親父の立つ帳場のうしろの壁に、三枚の品書きと並べて暦が一枚貼ってある。岡っ引きはそれを見上げた。毎日書き換えられる品書きの紙は白いが、正月元旦から今日の日まで、煮炊きの煙に燻されてきた暦は、薄茶色に染まっている。暦は俺と同じだ、ちゃんと年齢をくう―岡っ引きはふとそんなことを考えた。『今年ももう神無月になったな』 銚子を傾けながら、岡っ引きはぼそりと言い出した。親父は俯いて手を動かしながら、口元にかすかな微笑を刻んでうなずいただけだった。
 
 『神無月だ。嫌な月だよ。親父、覚えているかい、ちょうど去年の今ごろだったよなあ、俺の話したことを』 親父はまたうなずいた。脇のざるから葱を一本取り上げて、それを刻み始めた。 『葱を刻んで何をするんだい』 『納豆汁をこさえますんで』 『ああ、そりゃあ有り難い。だがもうそんなに飲んでるかい』 『それが三つ目の銚子ですよ』 葱を刻み終えると、親父は手を洗った。
 
 湯がしゅうしゅうと沸いている。銚子の具合を見ながら、親父は言った。『去年初めてあの話をしたときも、親分は納豆汁を食って帰りなすった』 『そうだったかな。好物だからな』 岡っ引きはまだ暦を見上げていた。親父もそちらに頭を振り向けた。『今日は仏滅ですね』 『いい塩梅だ。しんき臭い話をするにはおあつらえむきじゃねえか』 親父はわずかに眉をひそめた。『今年もあったんですかい』 岡っ引きは首を振った。『いいや』 銚子を手に取り、それを傾け杯を満たす。ちょうど空になった。そこで手を止めて、岡っ引きはもう一度首を振った。(略) 
 
 親父が煙草をふかした。湯気と煙がいりまじった。(略) 岡っ引きはゆっくりと杯を空け、目をしばしばとまたたいた。頭の奥に残っている光景を思い出そうとして。(略) 親父が煙草を消し、納豆汁を火にかけた。岡っ引きは皿の上の煮こごりもきれいに箸でさらった。『おつもりだ』と言うと、また目をしばたたかせながら壁の暦を見上げた。(略) 親父は納豆汁を椀によそい、飯といっしょに岡っ引きの前に並べた。まだ少し浅いですがと言いながら、茎漬けの小皿を添えた。『有難うよ、こいつはうまそうだ』 岡っ引きは箸をとった。音を立てて納豆汁をすすった。(略) 」
(出典:「市井・人情小説傑作選『江戸夢あかり』学研M文庫 所収 『神無月』 宮部 みゆき著」)



■連載を終えて

 メルマガIDNの貴重なページを、長い間 塞ぎ続けた連載も漸く終わりました。書き終えてホッとしたというより、これでよかったのだろうか、と気持のゆらぎが残っています。 
 第一章は、江戸の象徴を総花的に網羅した“名物”の紹介を通して、時代、風土、気質など江戸の輪郭を浮き彫りにすることが狙いでした。順を追って江戸の様子をなるべく詳しく「情報」の形で書こうとした結果、全体の3/4の容量を費やす破目になって読者の欠伸が心配になりました。 
 第二章では、江戸の雰囲気や市井に暮らす庶民の息遣いを、“産地直送”のように味わえる形でお届けしたい、と考えました。それには「物語」形式しかありませんので自分の目に触れたプロの作品を引用しました。さすがに“丸ごと”そっくり載せる訳にはいかず、下手な“まくら”を振ったあとに、いいとこ、美味しいとこだけを厳選して、ほんの一口分ずつ“切り身”の陳列となりました。
 
 読者に楽しんでいただきたい一心の筈が、それとは裏腹に、書きたいことを書き、好きなものを押し売りしたような気もします。その反面、涙を飲んで割愛せざるを得ない物語も沢山残りました。題材や内容が女性読者にも親しめるものだったかどうか、“こなれていない”書き物の読みにくさ、自分の癖、等も終始気になった点でした。仕事の決算棚卸しがまだ暫く続きそうです。
 
 連載の間、拙い書き物に辛抱強くお付き合い下さった読者の皆様に御礼申し上げます。また、試練の機会をご提供下さった奈良原理事長様はじめIDN本部の皆様と、毎回格別のお世話になりました編集長の生部様に、この場をお借りして深く謝意を表します。


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